2009年11月23日

チェス500名局(113)

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第1部 開放型

第5章 ルイ・ロペス

第113局

白 ドゥラス
黒 アリョーヒン
(マンハイム、1914年)

 本局は丁々発止の戦術が見ものである。

1.e4 e5 2.Nf3 Nc6 3.Bb5 a6 4.Bxc6 bxc6

 珍しい手だが面白い。しかし黒陣を開放する 4...dxc6 ほど理にかなっているわけではない。

5.d4 exd4

 5...Nf6 なら 6.Bg5 である。

6.Qxd4

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6...Qf6

 辛辣さに劣る 6...d6 ならば 7.O-O Qe7(7...Nf6 は 8.e5)8.Nc3 Nf6 9.Re1 となって黒はまだ展開に制約を受けている。

7.O-O

 白は単純化に同意した。もっと荒っぽい 7.e5 Qg6 8.O-O Qxc2 9.Nc3 はポーン損でも攻勢に立っただろう。

7...Qxd4 8.Nxd4 Rb8

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9.Nb3

 9.b3 は 9...c5 10.Ne2 c4 で黒も指せる。

9...Ne7 10.Bd2 Ng6 11.Bc3 Nf4

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 これは嫌がらせ戦略である。

12.Re1 Be7 13.N1d2

 13.Bxg7 なら 13...Rg8、13.g3 なら 13...Ne6 である。

13...O-O 14.Nc4

 これで駒の動員が完了し今度は捌きが始まる。

14...Re8

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15.Nca5

 この手はこれからしばらくの間相手のクイーン翼を抑えるがナイトが遠方を遍歴することになる。15.g3 Ne6 16.Rad1 が最も簡明だった。

15...Bf8 16.Rad1 c5

 この手はようやくdポーンを突くためである。白はまだ次の2手でそれを防ごうとする。

17.e5 Ne6 18.Nc4 h6 19.h4

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 このひねった手はやらずもがなである。

19...Be7 20.g3 g5

 このポーン突きは意欲的である。

21.hxg5 hxg5 22.Nba5

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 黒がキング翼に圧力をかけているので白は反対翼でバランスを取ろうとした。

22...Kh7

 キングが戦いに参加するためにg6の地点に向かった。

23.Kg2 Kg6 24.Rh1 Nd4

 黒は「戦線拡大の犠牲」で行動範囲を広げようとしている。

25.Bxd4 cxd4 26.Rxd4 Bb4

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27.Nb3

 27...Bxa5 28.Nxa5 Rxb2 で3個のポーンが当たりになるのをかわした。

27...d5

 黒は敢然と打って出た。

28.Ne3

 28.exd6e.p. は 28...Bb7+ 29.f3 cxd6 30.Nxd6 Re2+ 31.Kf1 Bxf3 でだめだし、28.Rxd5 にはもちろん 28...Bb7 である。

28...c5 29.Rxd5

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 交換損で2ポーンを得るのは賢明な犠牲だった。これで双ビショップの厳しい利きを終わらせた。

29...Bb7 30.c4 Rxe5

 ポーンを取り返して勢力の均衡は再び黒の方に傾いた。

31.a3

 白は単に 31.Rhd1 とするより形を決めることを望んだ。

31...Bxa3

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 この手は強制されたものだが必然でもある。この肉薄戦は非常に興味深い。

32.Na5

 白は切り返して来た。代わりに 32.bxa3 なら 32...Bxd5+ 33.cxd5 Rxb3 34.Rd1 Re4 35.d6 Rd4 36.Rxd4 cxd4 37.d7 Rb8 38.Nc4 Kf6
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で黒の勝ちになる。

32...Bxd5+ 33.cxd5

 黒は 34.bxa3、34.Nc6 および(33...Rxb2 のあと)34.Nac4 という複数の狙いにさらされている。

33...Rxe3

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 これはうまい「しっぺ返し」だった。ここまでの5手の小ぜり合いは二人の名フェンシング選手の突きとかわしを髣髴(ほうふつ)とさせる。

34.fxe3 Rxb2+ 35.Kf3 f5

 35...Rd2 は 36.Nc4 でだめである。

36.g4

 36.Nc4 は 36...g4+ 37.Kf4 Rb4 でだめである。

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36...fxg4+ 37.Ke4 Rb4+ 38.Kd3 Bb2 39.d6 Bf6 40.Rf1 g3

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 ポーンの昇格競争である。

41.d7 Rb8 42.Rd1

 42.Nc6 は 42...g2 43.Rg1(43.Rxf6+ なら 43...Kxf6 44.Nxb8 Ke7 で黒の勝ち)43...Rb6 44.d8=Q Bxd8 45.Nxd8 Rd6+ 46.Kc4 Rxd8 47.Rxg2 Kf5
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でやはり黒が勝つ。

42...g2 43.Ke2 Rb2+ 44.Kf3 Rd2

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 急所の列とポーンを制した。

45.Rg1 Rxd7 46.Rxg2 Rd3 47.Rc2 Rc3 48.Rxc3 Bxc3 49.Nc4 a5 50.Nb6 Bb4 白投了

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チェス世界選手権争奪史(99)

第5章 アレクサンドル・アリョーヒン(続き)

 試合それ自体は当時のアリョーヒンの実力をいくらか下回っていた。布局は試行的なことが明らかで、カパブランカとの戦いの試練からの切実な休息を楽しんでいなかったと信じるわけにはいかない。第8局にそれが見て取れる。

クイーン翼インディアン防御
白 ボゴリュボフ
黒 アリョーヒン

1.d4 Nf6 2.c4 b6 3.Nc3 Bb7 4.f3 d5 5.cxd5 Nxd5
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6.e4 Nxc3 7.bxc3 e6 8.Bb5+ Nd7 9.Ne2 Be7 10.O-O a6
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11.Bd3 c5 12.Bb2? Qc7 13.f4 Nf6 14.Ng3 h5! 15.Qe2 h4
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16.Nh1 Nh5 17.Qg4 O-O-O 18.Rae1 Kb8 19.f5 e5 20.d5 c4
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21.Bc2 Bc5+ 22.Nf2 g6 23.fxg6 Rdg8 24.Bc1 Bc8 25.Qf3 Rxg6
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26.Kh1 Ng3+! 27.hxg3 hxg3+ 28.Nh3 Bxh3 29.gxh3 Rxh3+ 30.Kg2 Rh2#
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(この章続く)

2009年11月22日

チェス世界選手権争奪史(98)

第5章 アレクサンドル・アリョーヒン(続き)

 クモッホは実際の交渉の実体の詳細も明らかにしている。

 『この時カパブランカはパリに滞在していて私を仲介者としてアリョーヒンに再戦を申し込んだ。私はその密書をアリョーヒンに届けた。彼はそれを2週間ほど手元においていたがその後私に返してよこした。このようにしてカパブランカからのどんな手紙も受け取る気がないことを明らかにした。私の知る限りそれで「自分のタイトル」の悲劇物語は終わりになった。』

 1928年8月のキッシンゲンでエフィム・ボゴリュボフはカパブランカを抑えて大きな大会に優勝した。そしてすぐにアリョーヒンに世界選手権戦への挑戦を申し入れた。アリョーヒンは「原則的に」受け入れいつもの論争が始まった。それはアリョーヒン対カパブランカの再戦を主催するというニュージャージー州のブラッドリービーチからの確かな申し出によって中断された。アリョーヒンはこの申し出を無視しヨーロッパでボゴリュボフと会って番勝負を行なうことを取り決めた。それは予定どおり1929年9月6日からドイツのビースバーデンで始まり、のちにドイツとオランダの他の都市に移動して行なわれた。

 カパブランカを度外視すればエフィム・ボゴリュボフが誰とも同じくらいタイトル戦への権利を持っていることは誰も否定しようがなかった。彼は1889年4月14日にキエフで生まれ、1914年マンハイムの大会で国際大会の舞台を踏み始めた。その大会は第一次世界大戦によって中断され彼はドイツ政府によってトライベルク近くの強制収容所に抑留された外国人マスターの一人となった。暇つぶしのために大会が頻繁に催されそこでボゴリュボフのチェスの才能が開花し休戦までには世界の最強選手の仲間入りをした。戦後はドイツに定住しドイツ人女性と結婚したが1926年までロシア市民権を放棄しなかった。そのため第3回および第4回全ソ連選手権戦の参加資格があり両方とも優勝した。また1925年のモスクワ国際大会にはソ連の代表として参加した。そしてラスカーに1½点差、世界チャンピオンのカパブランカに2点差をつけて優勝した。彼が初めて世界王座への候補者として頭角を現したのはこの大会での圧勝だった。それからは数多くの優勝を成し遂げたがその棋歴にもかかわらずアリョーヒン相手で勝ち目があると考える者はいなかった。番勝負はチャンピオンの11勝5敗9分に終わりすべての人の正しかったことが裏付けられた。

(この章続く)

2009年11月21日

チェス世界選手権争奪史(97)

第5章 アレクサンドル・アリョーヒン(続き)

 1927年の終わりに国際チェス連盟(FIDE)は会員(構成団体となっている各国の連盟)に書簡を配布した。そこでは世界選手権が決定される方式は「チェス界全般のために抜本的な変更が必要である」と明言していた。残念ながら当時のFIDEには状況を取り仕切る権威が何もなかった。一つには将来の番勝負の資金を自身で拠出することが期待できなかったことがある。さらには伝統的にまだ個人の所有物とみなすことが奨励されていた個人の手にタイトルがある時にそれを管理することは法的にも倫理的にも多くの問題があったためである。

 アリョーヒンとの再戦を実現しようとするカパブランカのむなしい努力の錯綜した逸話は状況が今日とはかけ離れていることを物語っている。まず両者のことを理解することが大切である。二人は長い間親密な友人関係だったが1927年の番勝負後完全に反目するようになった。二人とも生来あまり寛大な性格でなく、どちらかを「魔王のように傲慢」と呼ぶのは虚偽の父である悪魔を中傷することであり、交渉は非常に神経を要するものになった。

 それにカパブランカが本当に再戦を望んでいたのかという疑念もあった。確かにカパブランカはそのような番勝負が行なわれなければ責任はひとえにアリョーヒンにあると見られることを望んでいただけで再び番勝負を戦うことには熱心でなかったというのが多くの事情通の意見だった。その一方で信頼できる証人がいるとすればこの人となるハンス・クモッホの次のような証言もある。

 『キッシンゲンで私はカパブランカと出会いかなり親密な間柄になった。一緒に長い散歩をしよく世界選手権の話をした。それについてカパブランカはいつも「自分のタイトル」という表現を使っていた。それはたまたま一時的にアリョーヒンの手にあるに過ぎないと思っているようだった。一度ならず彼は私が大金を得る方法を説明した。それはごく簡単である。つまりアリョーヒンとの再戦をまとめてカパブランカにありったけの金をかけるだけである。それで私がかけに勝つ。それくらい確実なことである。』[ハンス・クモッホ『カパブランカの思い出』チェスレビュー誌1954年3月号]

(この章続く)

2009年11月20日

「ヒカルのチェス」(151)

「British Chess Magazine」2009年10月号(1/3)

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古豪対新鋭

イアン・ロジャーズがアムステルダムで「年長者優位」の空前の例を目撃した。

 2006年からオランダの億万長者のヨープ・バン・オーステロムが毎年アムステルダムで有望な若手5選手と5人のベテラン・グランドマスターとを戦わせる新鋭対古豪大会を主催してきた。

 オランダの首都に観光客の押し寄せる時期にアムステルダム中心部の高級なホテル・クラスナポルスキーで開催されるにもかかわらず、この催しはたまにしか観戦者の興味を引きつけなかった。たぶん若者が毎回勝っていたためだろう。(自分の若い頃のヒーローが毎日負かされるのを見るのは面白いことではない。)実際2008年に年長選手組が若手チームに33½-16½でつぶされてからはこのやり方そのものが根底から揺らいでいるように思えた。

 主催者側の解決策は年長チームを高レイティングの30代グランドマスターで補強することだった。まさしく世界級選手で33歳のピョートル・スビドレルが二人の現役の伝説的選手のアレクサンドル・ベリヤフスキーとリュボミル・リュボエビッチに加わって指すことになった。

 この変更は好ましい結果をもたらした。観戦者数は大会期間中着実に増加した。そして米国選手権者のヒカル・ナカムラ率いる強力若手チームの大奮闘にもかかわらず老練チームが27½-22½で初めて勝利した。

 二人の個人成績が際立っていて最終結果に大きく影響した。それはナカムラの不調とリュボエビッチの復活である。ナカムラの2009年は絶好調だった。しかしアムステルダムには病気と時差ぼけを患ってやってきた。それというのも日本での大会からニューヨークで1泊してオランダに飛行機で来たためだった。第3回戦のベリヤフスキーとの度肝を抜く試合でまた素晴らしい活躍を期待させたが、そのあと21歳の若者はエネルギーが尽きて最後の6試合で1点しか挙げられず15歳のホウ・イーファンと共に最下位に終わった。

・・・・

 2009年NH大会はキング翼インディアンを用いた黒の驚嘆の2試合の勝利が注目に値する。その1局は前述のナカムラの勝局である。

NH古豪対新鋭
2009年8月20-31日
オランダ・アムステルダム
古豪 27½ - 新鋭 22½




     ヤン・スメーツ
GM 2632
ファビアノ・カルアナ
GM 2670
ダニエル・ステルワヘン
GM 2630
ホウ・イーファン
GM 2584
ヒカル・ナカムラ
GM 2710
古豪組計
1ペテル・ハイネ・ニールセンGMデンマーク2680½ 1½ ½1 ½½ 1½ ½
2ピョートル・スビドレルGMロシア2739½ ½½ 0½ ½1 ½1 16
3リュボミル・リュボエビッチGMセルビア25530 ½½ ½1 01 ½½ 1
4アレクサンドル・ベリヤフスキーGMスロベニア26620 0½ 11 ½½ ½½ ½5
5ルーク・ファン・ベリGMオランダ2655½ ½½ ½½ 0½ ½½ ½
 新鋭組計   65 

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(この号続く)

チェス世界選手権争奪史(96)

第5章 アレクサンドル・アリョーヒン

 「かくして私の労苦は報いられ努力は栄光に輝いた!」とアリョーヒン自身の対カパブランカ戦の記述は始まっている。この形式的な表現は彼の4年に渡る準備と番勝負自体のとてつもない緊張を思い起こせばほとんど感傷的には思われない。彼は初めから終わりまで通常の攻撃的で冒険的な棋風を抑え、「チェス機械」と異名をとった男から奪取するのに必要と考えたもっと慎重で堅実なやり方を優先させた。

 ルーベン・ファインはその頃自分の棋歴の全盛期にさしかかっていたがアリョーヒンと初めて顔を合わせた時の思い出を次のように記している。

 『1932年にパサデナで初めて彼と会った時彼の天才の秘密が分かり始めた。彼は私に2、3ヶ月前にベルンでエーべと対局した試合を見せた。彼の目と振る舞いは全然見たことがないほど異様な熱心さだった。この男はチェスを愛していて、彼にとってはチェスが人生の活力源だった。コントラクトブリッジのテーブルで彼は突然スコットランド布局の未知の変化について話し始めることがあった。メキシコ行きの車中では1日4時間も新型の研究に根気強く没頭した。どの大会のどの選手によって指されたどの試合でも彼にとっては熱中する対象になって何時間もぶっ続けに新しい考えが湧き出てきた。休みの日や期間も早指しチェスをして楽しんでいた。彼はチェスのために、それもチェスだけのために生きていた。』[ファイン著『チェスの進撃』]

 アリョーヒンを知る多くの人たちは回想の中で彼の機知と魅力、話し上手の才能、そして全般的な愛想のよさ(もちろん対局時は例外)を書いている。しかし彼の人間性には別の側面があり年月を経るとともにますます前面に出てきて最後には陰気で恐ろしいロシア小説中の人物のように思われた。彼のもっとささいな欠点の一つは最も顕著だった。チェスへの献身ゆえに出版に当たって見つけられずに済むと思えばいつも自分の試合の成績を「改善」することをやめなかったし他人の研究の労苦を自分のものと主張するのもやめなかった。1930年代初めには酒におぼれるようになり年とともにますますひどくなった。そして1935年のエーべとの選手権戦でとんでもない事態に至った。ある試合では酔っ払ってまともに対局できない状態になり、実際に対局した試合のほとんども酩酊の状態にあったと伝えられている。晩年の活動では、特に自発的にせよそうでないにせよナチの宣伝機関との協力活動は、もっとあとで述べる必要がある。

(この章続く)

2009年11月19日

チェス世界選手権争奪史(95)

第4章 ホセ・ラウル・カパブランカ(続き)

 今やカパブランカの最も狂信的な支持者以外の誰にもタイトルが移動することが明らかだった。アリョーヒンは第22局でも勝勢になったが不用意な一手で棒に振った。次からはまた6局引き分けで第29局も同じ結果になりそうだったがアリョーヒン(黒)は次の局面で致命的なポカを出した。

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55...Bb6 または 55...Bd6 なら十分引き分けだったが実戦の 55...Kg5 で不運にも負けになった。56.Ne5! Bd4 57.Nxf7+ Kf6 58.Nd8 Bb6 59.Nc6 Bc5 60.Kf4! Bxf2
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61.g5+ Kf7 62.Ne5+ Ke7 63.Nxg6+ Kd6 64.Ke4 Bg3 65.Nf4 Ke7
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66.Ke5 Be1 67.d6+ Kd7 68.g6 Bb4 69.Kd5 Ke8 70.d7+ 黒投了
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 4-3の成績で勝負の行方はまた分からなくなったように見えたがアリョーヒンはまもなくだらだらした戦いの第32局と第34局をそれぞれ63手と82手で勝ってかたをつけた。これでチェス史上最長の番勝負がついに終わった。最終結果は挑戦者の6勝3敗25分だった。

(この章終わり)

2009年11月18日

世界のチェス雑誌から(58)

「British Chess Magazine」2009年10月号(1/4)

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棋譜のデパート

 IMサム・コリンズ - 意見感想はsamcollins@bcmchess.co.ukまで

 この講座では大会を丸ごと取り上げることはめったにないが、それが今月やろうと思ったことである。新潟親善チェス大会は日本の最も楽しい催しの一つで、美しい庭園でとても素晴らしい打ち解けた雰囲気の中で開催された。この快速大会の優勝賞品は自転車だった。大会後選手たちは長い宴会にふけり、チェスの話をしたり最近の日本チャンピオン同士で「新旧」の相談試合をしたりした。

 この大会で私の指した全4局を短い解説でおおくりする。比較的楽な航海だったが最終局だけは非常に問題があった。ちょっと軽めではあるが内容を楽しんでいただけたらと思う。

新潟親善チェス大会
白 サム・コリンズ
黒 山本大輔

カロカン防御パーノフ攻撃 [B14]

1.e4 c6 2.d4 d5 3.exd5 cxd5 4.c4 Nf6 5.Nc3 e6 6.Nf3 Bb4 7.cxd5 Nxd5

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8.Qc2

 8.Bd2 もある。

8...O-O 9.Bd3 h6 10.O-O Nc6 11.Rd1 Nf6

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 黒は有力な防御陣形のどれも採用しなかった。特にどうして ...h6 と ...Nf6 の両方を指す必要があるのか理解しづらい。勝とうとするならばそもそもポーンをかすめとることを考えなければならない。8...Nc6 9.Bd3 Ba5 10.a3 Nxc3 11.bxc3 Nxd4! 12.Nxd4 Qxd4
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白のポーン損の代償はキャッスリングしていない黒キングへの攻撃にある。

12.a3 Be7 13.Bf4 Bd7

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14.Qe2

 すぐに 14.d5 と突くのが良いタイミングのように見えるが、そのような仕掛けは黒がうまく立ち回ればどうしようもない引き分け模様の局面にしかならない。私の考えるところでは次の手順でできる。14...exd5 15.Nxd5 Nxd5 16.Bh7+ Kh8 17.Rxd5
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白の見た目に圧倒的な態勢は次のように2手の的確な応手で無力にできる。17...Qc8 18.Rad1 Be6 19.Rh5 Bg4 20.Bf5 Bxf5 21.Rxf5 Rd8 22.Rxd8 Nxd8
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これで闘いが終息しそうである。

14...Qb6 15.Bc2 Nd5 16.Qd3 f5 17.Nxd5 exd5

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18.Re1 Bf6 19.Ne5 Be6 20.Nxc6 Qxc6 21.Rac1

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 駒の働きの良さと二つの素通し列を制して白にとっては願ってもない局面である。

21...Qd7 22.Be5 Rac8 23.h3 Rc6 24.Rcd1 Qf7

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25.Ba4 Rcc8 26.Bb3 a6 27.Qf3

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27...g6??

 27...Bxe5 の方が良いがどちらで取り返しても白がはっきり優勢である。

28.Bxf6 Qxf6 29.Rxe6 Qxe6 30.Bxd5 1-0

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(この号続く)

チェス世界選手権争奪史(94)

第4章 ホセ・ラウル・カパブランカ(続き)

 この試合は勝負の転換点となった。明らかに気落ちしたカパブランカは第12局でひどいチェスを指し3-2で再びリードを許しずっと続くことになった。次の試合からは8局連続(!)で引き分けでほとんどは30手未満だった。同じ戦型が何度も現れスポーツの観点から最も好ましくない一面だった。第17局と第20局は例外だったが勝負はつかなかった。そしてむかえた第21局は・・・

クイーン翼ギャンビット拒否
白 カパブランカ
黒 アリョーヒン

1.d4 d5 2.c4 e6 3.Nc3 Nf6 4.Bg5 Nbd7 5.e3 Be7 6.Nf3 O-O 7.Rc1 a6

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 アリョーヒンはこの手を計8局指し結果は1勝(本局)7分だった。

8.a3

 第23局でカパブランカは最善の応手の 8.cxd5 を見つけた。以下は 8...exd5 9.Bd3 c6 10.O-O Ne8 = で引き分けの局面に戻った。第25局ではまた少し改良した 10.Qc2! を指し 10...Re8(第27局でアリョーヒンは 10...h6 11.Bh4 Ne8 と手を変えたが成功したとは言えなかった)11.O-O Nf8 12.Rfe1 Be6 13.Na4 で少し有利だった。

8...h6 9.Bh4 dxc4 10.Bxc4

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10...b5

 第13、15および19局でアリョーヒンはここで 10...c5 と指していた。先の2局は 11.dxc5 Nxc5 12.Be2 b6 と進んで互角の形勢で、3局とも短手数の引き分けに終わった。

11.Be2 Bb7 12.O-O c5 13.dxc5 Nxc5

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14.Nd4

 明らかに 14.Qxd8 Rfxd8 15.Rfd1 はまたしても短手数の引き分けになっていただろう。本譜の狙いは 15.Bxf6 Bxf6 16.Ncxb5 である。この手を指さずにすぐに指すのは次のようにルークを得る代わりに2駒を失う。14.Bxf6 Bxf6 15.Nxb5 Qxd1 16.Rfxd1 Nb3 17.Rc7 Bxf3 -/+

14...Rc8 15.b4

 このポーン突きによって弱体化した枡の付けは後で高くついた。ともかくも 15.Bf3 と指しておけば安全だった。

15...Ncd7 16.Bg3 Nb6 17.Qb3

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17...Nfd5

 すぐに 17...Nc4 なら白は 18.Rfd1 Qb6 19.a4 と指すことができる。実戦の手の狙いは 18...Nxc3 19.Rxc3 Bd5 20.Qb2 Rxc3 21.Qxc3 Qa8! から 22...Rc8 =/+ である。

18.Bf3 Rc4! 19.Ne4 Qc8

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20.Rxc4

 アリョーヒンはこの手を決定的な大局観の誤りと考えていて 20.Qb1 Rd8 21.Nd2 Rxc1 22.Rxc1 Qa8 23.Bc7 を推奨し次のように付け加えた。「それでも実戦の手は決して本当のポカとみなすことはできない。カパブランカが本局に負けたのは単に自陣の危機に気づくのが遅かったためでありつまるところ完全に押しまくられたためだった。」しかし彼の文章のどこにも白がどうすれば助かったのか示しているところはない。

20...Nxc4 21.Rc1 Qa8

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22.Nc3

 22.Nc5 は 22...Bxc5 23.bxc5 Rc8 24.Be2 Rxc5 25.Bxc4 Qc8!
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でだめである。

22...Rc8 23.Nxd5 Bxd5 24.Bxd5 Qxd5 25.a4 Bf6 26.Nf3 Bb2!

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 アリョーヒンによれば「この手はビショップの利きを損ねずに ...e5 と指すためである。」そして次の変化をあげている。Ⅰ27.Rd1 bxa4! 28.Qxa4 Nb6 29.Rxd5 Nxa4 30.Rd1 Nc3 31.Re1 Rc4 32.Bd6 Ne4 33.Be7 f6 34.Rb1 Kf7 35.Kf1 Bc3
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で黒の楽勝。Ⅱ27.Rb1 Na3! 28.Qxb2 Nxb1 29.Qxb1 Qb3 30.Qf1 bxa4 31.h3 a3
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で黒の勝ち。

27.Re1 Rd8 28.axb5 axb5 29.h3 e5 30.Rb1 e4!

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31.Nd4

 31.Ne1 は 31...Qd2、31.Nh2 は 31...Qd3 が黒クイーンの侵入が致命的になるので良くない。

31...Bxd4 32.Rd1 Nxe3! 白投了

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(この章続く)

2009年11月17日

チェス世界選手権争奪史(93)

第4章 ホセ・ラウル・カパブランカ(続き)

 その後の3局は引き分けに終わってカパブランカのリードが続いた。第11局はアリョーヒンが言ったように「まったくばかげたできごと」で、格言にある最後から2番目の悪手を出したのは挑戦者の方だった[訳注 『勝者とは最後から2番目に間違いを犯した選手である』]。

クイーン翼ギャンビット拒否
白 カパブランカ
黒 アリョーヒン

1.d4 d5 2.c4 e6 3.Nc3 Nf6 4.Bg5 Nbd7 5.e3 c6 6.Nf3 Qa5 7.Nd2 Bb4 8.Qc2
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8...dxc4(8...O-O は前回の第7局を参照。)9.Bxf6 Nxf6 10.Nxc4 Qc7 11.a3 Be7
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12.Be2(第29局でカパブランカはここで 12.g3 と指した。そして 12...O-O 13.Bg2 Bd7 14.b4! と進んで白が少し優勢になった。)12...O-O 13.O-O Bd7 14.b4 b6 15.Bf3! Rac8 16.Rfd1 Rfd8 17.Rac1 Be8
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18.g3 Nd5 19.Nb2 Qb8 20.Nd3 Bg5 21.Rb1 Qb7 22.e4 Nxc3 23.Qxc3
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23...Qe7(?)(23...Rc7! 24.Bg2 Bf6 25.e5 Be7 26.Rbc1 Qc8 =)24.h4! Bh6 25.Ne5 g6 26.Ng4(?)(26.Nc4!)26...Bg7 27.e5 h5 28.Ne3 c5! 29.bxc5 bxc5
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30.d5?!(30.Rb7 Rd7 31.Rxd7 Bxd7 32.d5 exd5 33.Nxd5 Qe6 34.Nf4 =)30...exd5 31.Nxd5 Qe6(31...Qxe5?? 32.Qxe5 Bxe5 33.Ne7+ +/-)32.Nf6+(?)(32.Rb7 Bxe5 33.Qa5 Kg7 34.Rxa7 +/=)32...Bxf6 33.exf6 Rxd1+ 34.Rxd1 Bc6! 35.Re1 Qf5 36.Re3 c4! 37.a4
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37...a5(37...Bxa4? 38.Be4 Qg4 39.Bf3 Qd7 40.Re7 Qd3 41.Qxd3 cxd3 42.Rxa7 =)38.Bg2 Bxg2 39.Kxg2 Qd5+ 40.Kh2 Qf5 41.Rf3 Qc5 42.Rf4
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42...Kh7(42...Qb6!)43.Rd4 Qc6?(43...Qb6!)44.Qxa5 c3 45.Qa7!
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45...Kg8(アリョーヒンの研究によれば黒は他に良い手がない。Ⅰ45...Qxf6 46.Rf4 Qxf4 47.gxf4 c2 48.Qxf7+ Kh6 49.f5! =[訳注 実際は +- なので黒は 48...Kh8 = が正着] Ⅱ45...Qc7 46.Qxc7 Rxc7 47.Rd1 = Ⅲ45...Rc7 46.Qb8 c2 47.Rd8 Qxf6! 48.Rh8+!! Qxh8 49.Qxc7 =)46.Qe7 Qb6
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47.Qd7?(47.Rd7! Qxf2+ 48.Kh1! Qa2 49.Rd8+ Rxd8 50.Qxd8+ Kh7 51.Qf8 これで黒は永久チェックをかけるしかない。)47...Qc5 48.Re4 Qxf2+ 49.Kh3 Qf1+ 50.Kh2 Qf2+ 51.Kh3 Rf8 52.Qc6 Qf1+
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53.Kh2 Qf2+ 54.Kh3 Qf1+ 55.Kh2 Kh7! 56.Qc4 Qf2+ 57.Kh3 Qg1! 58.Re2
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58...Qf1+?(58...Qh1+! 59.Rh2 Qf3! -/+)59.Kh2 Qxf6
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60.a5?(60.Rc2 Re8 61.Kg2! 狙いは 62.Rxc3 と 62.Rf2 =)60...Rd8?(60...Qf1)61.a6?(61.Kg2)61...Qf1! 62.Qe4 Rd2 63.Rxd2 cxd2 64.a7 d1=Q 65.a8=Q Qg1+ 66.Kh3 Qdf1+ 白投了
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(この章続く)

2009年11月16日

チェス500名局(112)

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第1部 開放型

第5章 ルイ・ロペス

第112局

白 カパブランカ
黒 ヤノフスキー
(サンクトペテルブルク、1914年)

 この試合は白が難攻不落に見える敵陣をポーンで攻略した見事さで有名である。

1.e4 e5 2.Nf3 Nc6 3.Bb5 a6 4.Bxc6 dxc6 5.Nc3

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 この手も理にかなった展開の手である。白は中原の形をどうするかを将来に先送りしている。

5...Bc5

 5...Bb4 なら 6.Ne2、5...Bg4 なら 6.h3、5...Nf6 なら 6.Nxe5、最後に 5...Bd6 なら 6.d4 で白が中原の支配権を得る。

 黒の最善手は最初から中原に防御壁を構築する 5...f6 である。以下は例えば 6.Nxe5(このナイト切りは無理筋である)なら 6...fxe5 7.Qh5+ Ke7、6.d3 ならば 6...c5 で中原を封鎖、6.d4 なら 6...exd4 7.Qxd4 Qxd4 8.Nxd4 c5 9.Nde2 Be6 から ...O-O-O で黒は順調に展開できる。

6.d3

 6.Nxe5 なら黒は 6...Bxf2+ 7.Kxf2 Qd4+ 8.Ke1 Qxe5 9.d4 でなく 6...Qd4 7.Nd3 Ba7 で応じる。白は1ポーン得にもかかわらず動きが難しい。

6...Bg4

 ここでも 6...f6 の方が堅実だった。

7.Be3

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7...Bxe3

 7...Bd6 と交換を避ければ 8.d4 である。

8.fxe3 Qe7

 黒の反撃策には十分な実体がない。8...Ne7 9.O-O O-O の方が気が利いていた。ついでに言えば黒クイーンはd6の地点にいる方がよい。

9.O-O

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9...O-O-O

 この段階でも 9...Nf6 から ...O-O の方が戦略的に本手だった。

10.Qe1 Nh6

 ここでも実戦のひねった展開より 10...Nf6 の方が良かった。

11.Rb1

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 ルークが戦闘配置についた。

11...f6 12.b4 Nf7 13.a4 Bxf3 14.Rxf3 b6 15.b5 cxb5 16.axb5 a5

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17.Nd5 Qc5 18.c4 Ng5 19.Rf2 Ne6 20.Qc3 Rd7 21.Rd1

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21...Kb7

 黒キングは危険地帯にとどまっているより 21...Kd8 で反対翼に逃げた方が良かった。

22.d4

 この準備を整えたポーン突きで白陣が広がる。

22...Qd6

 この手は仕方がない。22...Qf8 では 23.dxe5 と取られる。

23.Rc2 exd4 24.exd4 Nf4 25.c5

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 このポーン突きは痛烈である。白の4ポーンの横隊が連携して攻撃態勢をとっていることに注目して欲しい。

25...Nxd5 26.exd5 Qxd5 27.c6+ Kb8 28.cxd7 Qxd7 29.d5 Re8 30.d6 cxd6 31.Qc6 黒投了

Y091116H.JPG

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チェス世界選手権争奪史(92)

第4章 ホセ・ラウル・カパブランカ(続き)

 そのあとの3局は激闘の末の引き分けだった。そして第7局はカパブランカがきれいな勝ちを収めて先行した。その勝利ですべてがまた順調にいっているように感じたに違いない。

クイーン翼ギャンビット拒否
白 カパブランカ
黒 アリョーヒン

1.d4 d5 2.c4 e6 3.Nc3 Nf6 4.Bg5 Nbd7 5.e3 c6

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6.Nf3

 両選手ともこの番勝負の白番でケンブリッジスプリングズ防御を避けるために他の6手目を試みた。しかし 6.Qc2、6.Bd3、6.a3 のどれもうまくいかなかった。第32局でアリョーヒンは 6.cxd5(交換戦法)に変えて見事な勝利を飾った。

6...Qa5

 この手がケンブリッジスプリングズ防御の特徴で、その地で1904年にマーシャルが快勝したことにちなんで名付けられた。アリョーヒンはこの番勝負でこの防御を3回採用し3局とも申し分のない局面になった。しかし2局目に勝っただけで他の2局は負けた。

7.Nd2 Bb4 8.Qc2

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8...O-O

 第11局と第29局では 8...dxc4 9.Bxf6 Nxf6 10.Nxc4 Qc7 11.a3 Be7 = と進んだ。

9.Bh4

 これは新機軸の手だった。当時の普通の手は 9.Be2 だったが 9...e5 10.O-O Bd6 11.Nb3 Qc7 で黒が有望である。

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9...c5

 この手はのちに批判されたが何も悪いところはない。他の手のうち 9...Ne4 は良くない。例えば 10.Ndxe4 dxe4 11.Be2 e5 12.O-O exd4 13.Nxe4 f5 14.a3 +/-
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(カシュダン対マーシャル、ニューヨーク、1932年)また 9...e5 は疑問のポーン捨てである。10.dxe5 Ne4 11.Ndxe4 dxe4 12.e6! Ne5 13.exf7+ Rxf7 14.O-O-O!
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黒の代償ははっきりしない。

10.Nb3 Qa4 11.Bxf6 Nxf6 12.dxc5

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12...Ne4?

 アリョーヒンはこの手に1時間以上をかけた。そしてあとでひどい時間不足に陥った。さらに悪いことにはこの手は良くない手だった。彼自身のちに次の手順を推奨していた。12...Bxc3+ 13.Qxc3 Ne4 14.Qa5 Qxa5 15.Nxa5 Nxc5 16.cxd5 exd5
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これで白はそれほど有利でない。

13.cxd5 Bxc3+ 14.bxc3 Nxc5 15.Rd1! exd5 16.Rxd5

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16...Nxb3

 ロシア生まれのマスターのスルタンベイエフは研究の結果ここで 16...b6 を推奨し以下 17.Rd4 Qc6 18.Nxc5 bxc5 19.Rh4 f5 20.Bc4+ Kh8 21.O-O Bb7 22.f3 Rad8
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で、「白のルークが場違いな所にいるので」黒に反撃のチャンスがあるとしている。この手順が完全に信頼できるかどうかはともかく本譜は明らかに黒が何の代償もなく完全なポーン損になっている。

17.axb3 Qc6 18.Rd4 Re8 19.Bd3!

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 この手はポーンを返す代わりに黒キングに対する攻勢を強める意図である。

19...Qxg2 20.Bxh7+ Kf8

 20...Kh8 は 21.Be4 Qh3 22.Rg1 となり 22...Qxh2 と取ることができない。

21.Be4 Qh3 22.Qd2 Be6 23.c4 a5 24.Rg1 Qxh2

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 黒は戦力を回復できなければ投了に等しい。

25.Rh1 Qc7 26.Qb2!

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 この手は 27.Qa3+ Kg8 28.Bh7+ Kh8 29.Rdh4 からの詰みを狙っている。

26...Qc5 27.Bd5 Ra6 28.Re4

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28...Rd6

 gポーンは助からない。28...f6 なら 29.Rh8+ で駒損になる。28...g6 は 29.Qf6 で詰まされる[訳注 29...Qb4+ からクイーンを素抜かれるので正着は 29.Rh8+ Ke7 30.Bxe6 です]。

29.Rh7 Ke7

 代わりに 29...g6 は 30.Qg7+ Ke7 31.Qxf7+ である。

30.Qxg7 Kd8

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31.Bxe6 fxe6 32.Qxb7 Qb4+ 33.Qxb4 axb4 34.c5 Rc6 35.Rxb4 Rxc5 36.Ra7 黒投了

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 36...Rc8 なら 37.Rd4# である。

(この章続く)

2009年11月15日

囲いの崩し方023

YKA023.JPG 白の手番

「Chess Informant 9」
Combinations
41. KOSENKOV - HELJM, correspondence

1.Bxf6! Rxe5 2.Rxg7+ Kh8 3.Bxe5 f6 4.Rxe7 Qxe7 5.Bd6 Qf7 6.Bxf8 Qxf8 7.Rxd7 Qh6+ 8.Kd1 Qxh4 9.g3 Qh1 10.Ke1 a6 11.Rd6 1-0

チェス世界選手権争奪史(91)

第4章 ホセ・ラウル・カパブランカ(続き)

 第2局は短手数(19手)の引き分けで、そのような多数の最初だった。しかし第3局でカパブランカは彼の信奉者たちが期待するようになった類の試合で相手を寄せ付けなかった。

クイーン翼インディアン防御
白 カパブランカ
黒 アリョーヒン

1.d4 Nf6 2.Nf3 b6 3.g3 Bb7 4.Bg2 c5 5.O-O cxd4
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6.Nxd4 Bxg2 7.Kxg2 d5 8.c4 e6 9.Qa4+ Qd7 10.Nb5 Nc6
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11.cxd5 exd5 12.Bf4 Rc8 13.Rc1 Bc5 14.b4 Bxb4 15.Rxc6 Rxc6
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16.Qxb4 Ne4 17.Nd2 Nxd2 18.Qxd2 O-O 19.Rd1 Rc5 20.Nd4 Re8
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21.Nb3 Rcc8 22.e3 Qa4 23.Qxd5 Rc2 24.Rd2 Rxa2 25.Rxa2 Qxa2
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26.Qc6 Rf8 27.Nd4 Kh8 28.Be5 f6 29.Ne6 Rg8 30.Bd4 h6
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31.h4 Qb1 32.Nxg7 Qg6 33.h5 Qf7 34.Nf5 Kh7 35.Qe4 Re8
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36.Qf4 Qf8 37.Nd6 Re7 38.Bxf6 Qa8+ 39.e4 Rg7 40.Bxg7 Kxg7 41.Nf5+ Kf7 42.Qc7+ 黒投了
YFMF091H.JPG

(この章続く)

2009年11月14日

チェス世界選手権争奪史(90)

第4章 ホセ・ラウル・カパブランカ(続き)

 初戦でカパブランカは 1.e4 と指してすべての人をびっくりさせた(この番勝負でこの無謀な手を指したのはこの時だけだった)。アリョーヒンはフランス防御で応じ次のように進んだ。1.e4 e6 2.d4 d5 3.Nc3 Bb4 4.exd5 exd5 5.Bd3 Nc6 6.Nge2 Nge7 7.O-O Bf5 =
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8.Bxf5 Nxf5 9.Qd3 Qd7 10.Nd1(10.Bf4!)10...O-O 11.Ne3 Nxe3 12.Bxe3 Rfe8
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13.Nf4(13.Bf4! =)13...Bd6! 14.Rfe1(14.c3!)14...Nb4 15.Qb3?(15.Qd2 -/+)15...Qf5 16.Rac1?(16.Nd3 Nxd3 17.Qxd3 Qxd3 18.cxd3 Bb4 -/+)
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ここでアリョーヒンは軽妙な手筋の 16...Nxc2! 17.Rxc2 Qxf4 でポーンを得しそのまま押し切った(カパブランカは43手で投了した)。

(この章続く)

2009年11月13日

「ヒカルのチェス」(150)

「British Chess Magazine」2009年8月号(2/2)

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サンセバスティアン(続き)

2009年サンセバスティアン
白 ヒカル・ナカムラ
黒 マクシム・バシエ=ラグラーブ
シチリア防御ナイドルフ戦法 [B80]

1.e4 c5 2.Nf3 d6 3.d4 cxd4 4.Nxd4 Nf6 5.Nc3 a6 6.Be3 Ng4 7.Bc1 Nf6 8.f3 e6 9.Be3 b5 10.Qd2 Nbd7 11.g4

Y091113A.JPG

11...h6

 11...Nb6 は昔カスパロフも指したことのある手だが今は廃れたようである。12.a4 Nc4 13.Bxc4 bxc4 14.a5 Bb7 15.Na4 Nd7 16.O-O-O
Y091113B.JPG
は2004年タリンでの快速戦のアーナンド対クラオツ戦である。

12.O-O-O Bb7 13.h4 b4 14.Na4 Qa5 15.b3 Nc5 16.a3

Y091113C.JPG

16...Rc8

 他には 16...Nxa4 17.axb4 Qc7 18.bxa4 d5 19.e5 Nd7 20.f4 Nb6
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という指し方もある。これはしばらく流行し激戦が繰り返された。このあと白は 21.f5 や 21.Rh3 とも指せるし、21.Bf2 もあるかもしれない。また 21.a5 は1999年リナレスでのトパロフ対カスパロフ戦で指された(BCM1999年4月号180ページを参照)。

17.Qxb4

 17.axb4 Nxb3+ 18.Nxb3 Qxa4 19.Kb2 d5 20.c3 dxe4 21.Ra1 Qd7 22.Qxd7+ Kxd7
Y091113E.JPG
も手順は長いが定跡で、少し実戦例がある。黒が問題なさそうだが白は途中で 21.Na5!? と指すこともできうまくいったこともある。

17...Qc7

 17...Qxb4 18.axb4 Nxa4 19.bxa4 d5 20.e5 Nd7 21.b5
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は白が良いというのはイゴール・ストールの説である。

18.Nxc5

 18.Kb1 は2000年のFIDEワールドカップでのハリフマン戦でアーナンドの指した研究の新手であった。

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18...dxc5 19.Qa4+ Nd7 20.Ne2

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20...Bc6

 チェスベースでのハリフマン戦の試合の解説でアーナンドは 20...c4 に好手の記号を付けていた。以下は 21.Bf4 Qc6 22.Qxc6(22.Kb2 Qxa4 23.bxa4 Be7 24.Nc3 Bf6 25.Be2 Nb6 26.e5 Be7
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は2002年の世界対ロシア快速戦のアーナンド対カスパロフ戦で引き分けに終わった)22...Bxa3+ 23.Kb1 となってここでアーナンドは 23...Bxc6 の方が「無難」だと判断した。

21.Qc4

 2002年オルギン市でのゴンゴラ・レジェス対アブレウ・デルガード戦は 21.Qxa6 Ra8 22.Qc4 Rxa3 23.Kb1 Nb6 24.Qc3 Na4 25.Qc4 Nb6
Y091113J.JPG
で合意の引き分けになった。

21...Ne5 22.Qc3 Nxf3 23.Bf4

Y091113K.JPG

23...e5

 2002年ソバタでのマネスク対ミロン戦では 23...Qb7 24.Bg2 Bxe4?!(24...Nd4 が正着で互角の形勢になる)25.Ng3 Bc6 26.Rhf1 Nd4 27.Bxc6+ Qxc6 28.Qc4 Nb5 29.Be5!
Y091113L.JPG
と進んで白の勝ちに終わった。このあと 29...Nxa3 ならば 30.Qf4 で白の攻めが厳しい。

24.Qxf3 exf4 25.Qxf4

Y091113M.JPG

25...c4

 25...Qxf4+ は 26.Nxf4 で、ビショップがe4のポーンを取ると Re1 で釘付けにされるので取れない。

26.b4 a5 27.Qxc7 Rxc7 28.c3 Bxe4 29.Rh3!

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 黒はポーンを取り返したがキングが中央で相変わらず不安定なままである。

29...Be7 30.Nd4 axb4

 ここですぐに 30...O-O と指しても本譜と同様にやられただろう。

31.axb4 O-O 32.Nb5

Y091113O.JPG

 黒はc4のポーンを守ることができず Re3 で二つのビショップを脅かす狙いにも対処できないのでこのポーンは取られる運命である。

32...Rb7 33.Nd6!

 33.Bxc4? は 33...Rc8 34.Rd4 Bc6 で白の駒がお互いを守るために無理な態勢になっている。白は態勢を崩すことなくいずれc4のポーンを取ることに自信を持っていて、辛抱強く指している。

33...Bxd6 34.Rxd6 Rc7 35.Rd4 Bb7 36.Rxc4 Re7 37.Rd4 Re1+ 38.Rd1 Rfe8 39.Bd3 Bc8 40.Rg3

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 黒は1手狙いがなくなって、白の連結パスポーンへの対処に非常に困っている。

40...g5 41.hxg5 hxg5 42.Rxe1 Rxe1+ 43.Kd2 Re5 44.Re3! 1-0

Y091113Q.JPG

 見事な決め手だった。ナカムラは黒にルークを交換させてgポーンは取られてもポーンを突き進めることができることを読み切っていた。例えば 44...Rxe3 45.Kxe3 Bxg4 46.b5 Bc8 47.c4 Kf8 48.c5 Ke7 49.b6 Bb7 50.Be4
Y091113R.JPG
50...Bxe4 51.Kxe4 Kd7 52.Kf5 f6 53.b7 Kc7 54.c6 Kb8 55.Kxf6 g4 56.Ke7 Kc7 57.b8=Q+ Kxb8 58.Kd7
Y091113S.JPG
でcポーンがgポーンよりもずっと早くクイーンに昇格する。

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速報

米国 - ドノスティア/サンセバスティアン大会の前にヒカル・ナカムラはワールドオープン(フィラデルフィア、6月29日から7月5日)でロシアのグランドマスターのエブゲニー・ナイェルと同点1位になった。判定でナイェルが優勝と認定された。順位 1-2位 H.ヒカル、E.ナイェル 7/9、3-7位 ガータ・カームスキー(米国)、イリヤ・スミリン(イスラエル)、イリ・ストチェク(チェコ)、バルージャン・アコビアン(米国)、レオニド・ユダシン(イスラエル)6½ 以下略

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(この号終わり)

チェス世界選手権争奪史(89)

第4章 ホセ・ラウル・カパブランカ(続き)

 アレクサンドル・アレクサンドロビッチ・アリョーヒンは1892年11月1日[訳注 10月31日、10月19日と書いている本もあります]にモスクワで生まれた。両親は貴族で、ロシア貴族階級の中でも悪名高い方だったようである。父はモンテカルロで一夜で2百万ルーブルを損したことがあるといううわさだった。アリョーヒンは10歳頃に母からチェスを教わりすぐにそれにはまり熱中した。彼の上達は急速だった。郵便チェスを数多く指した後1907年に最初の対面対戦の大会に参加した。1909年までにはサンクトペテルブルクでの全ロシアアマチュア大会に優勝し名だたるマスターになっていた。第一次世界大戦前の年まで小さな国際大会で好成績をあげていた。そしてマンハイムでの自身最大の大会に向かっている途中で銃撃が始まった。彼と他のロシア人選手はドイツ政府によって敵国市民として抑留された。それからの2、3年の生活はほとんど確証のないうわさばかりである。どうにかドイツから逃げ出しロシアへ戻ってロシア軍に入隊した。そして勇敢に戦い二度負傷し二度勲章を授けられた。さらに1918年のロシア革命では危うく命を落とすところだった。彼と家族はもちろん全財産を失い、チェス選手として有名だったのでなんとか命が助かったと自身で記している。以降のソ連からの脱出はロマンスにも包まれている。最初の妻との結婚は明らかに意図的なものだったそうだが詳細は不明である。いずれにしても1921年にオーストリアのトライベルクでの参加を認められ、その後ロシアに戻る代わりにパリへ行きそこでチェスのプロとして新しい人生のスタートをきった。それからの何年かは最も活動的な選手となり1921年から27年の間に何十もの大会に参加しほとんどで好成績を収めた。時間を見つけてソルボンヌ大学から法学博士の学位も取った。

 1923年にはアリョーヒンは早くもカパブランカとの番勝負のために入念な準備を始めていた。チャンピオンの試合は前例のないほど徹底的に研究した(著書の『世界選手権への道』は大部分がこの時行なった準備の自身による記述である)。これに対してカパブランカは番勝負の準備は何もしなかった。それはしたことがないことによることも大きいが、アリョーヒンとのこれまでの対戦成績がほとんど必要性を感じさせなかったことも間違いなかった。この番勝負自体はロンドン協定(先に6勝した方の勝ち)に沿って行なわれた唯一のもので1927年9月16日から始まった。

(この章続く)

2009年11月12日

チェス世界選手権争奪史(88)

第4章 ホセ・ラウル・カパブランカ(続き)

 大会それ自体も秩序正しさの模範から外れていた。カパブランカは絶好調だった。早くも第3回戦で首位に立ち一時ニムゾビッチに並ばれただけで最後まで首位を走った。第4巡目(4回総当たりだった)の初めでマーシャルを破って優勝を確定したあとで以降の4選手とは引き分けを受諾する用意があると表明した。あいにく次の3局で彼は最善の努力をしたにもかかわらず、シュピールマン戦ではわずかな有利、ビドマール戦では優勢、ニムゾビッチ戦では勝勢というように程度の異なる優位を得た。そしてシュピールマン戦とビドマール戦では優勢な局面でさっさと引き分けにした。しかしニムゾビッチ戦では愚行の頂点に達した。カパブランカは大会運営者を通してこの対戦相手(?)に良い手を指してくれないと世界のほとんどの期待と異なり自分が勝つことが避けられなくなるというメッセージを送らなければならなかった。最終戦のアリョーヒンとだけは事が円滑に運んだ。両者は26手で文句のつけようのない引き分けに合意した。そしてこのささやかな行為が非常に気に入ったようで二人はブエノスアイレスでの番勝負では何回もそういうことに及んだ。

 アリョーヒンはこのニューヨークでの大会で準優勝し、チャンピオンとは2½点差の健闘で3位のニムゾビッチにはなんとか1点差をつけた。カパブランカはこの大会より前にアリョーヒンと番勝負を行なうことに合意していたようでアルゼンチン・チェスクラブからの主催の申し出を承諾していた。だからもし予定の挑戦者が2位になれなかったら明らかに具合の悪いことになっていた。アリョーヒンは既に1926年にオランダの若い選手のマックス・エーべとの練習試合でわずか1点差で辛勝して評判を損ねていた。だからタイトル挑戦にふさわしいことを証明するためにこの大会で好成績が必要だった。しかしカパブランカのニューヨーク大会での勝ち点の差は両者の実力の開きを示していたに違いない。そしてカパブランカのこれまでのアリョーヒンとの対戦成績も5勝無敗7分で挑戦者にとってほとんど良い兆候でなかった。

(この章続く)

2009年11月11日

世界のチェス雑誌から(57)

「Chess Life」2009年10月号(3/3)

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教育界

すごいぞロブソン(続き)

 平和的な引き分けはほとんどなかったので、主催者の一人のアシシュ・バーヤは表彰式で参加者全員の闘志を褒めたたえた。選手はみな、大会の終わりに記念のジャージーを贈呈してくれた大リーグチームのミルウォーキーブリュワーズを良い思い出として忘れないだろう。このチームはずっとチェスを支援し若者の心の成長を励ましていることを高く評価されている。

 選抜大会に先駆けて2009年米国ジュニアオープン大会が開催された。サム・シャンクランドが21歳未満部門の優勝トロフィーをエリック・ローゼン(イリノイ州)に授与し、来年のジュニア選抜大会の最初の公式参加者となったエリックを歓迎した。エリックはケビン・ブー(ミネソタ州)と共に4½点をあげたがスリル満点の一発勝負で勝って優勝した。

 この大会は米国チェス連盟、バヤ国際チェス学園それにウィスコンシンチェス学園の共催だった。インターネット・チェスクラブが大会の実況中継を行なった。ウィスコンシン学校教育チェス協会は大会の円滑な運営を助けた。素晴らしい対局会場を提供してくれたラマダ・ホテルには特別の感謝を表したい。大会会長、主任カメラマン、それに各種の社会活動と関連催しの実行者として働いたフランク・ベリーには最高の謝辞を送りたい。

2009年米国ジュニア選抜選手権戦
2009年7月13日-16日、ウィスコンシン州ミルウォーキー



#選手 12345678合計
1IMレイ・ロブソン2557XX½111½116
2IMサルビユス・バーシス2503½XX½½1½115
3IMアレックス・レンダーマン26360½XX½11014
4IMサミュエル・シャンクランド25530½½XX01½1
5FMマイケル・リー24060001XX1½1
6FMジョエル・バナワ2408½½000XX113
7FMエリオット・リュー2359001½½0XX½
8CMマックス・コールマン2182000000½XX½

2009年米国ジュニア選抜選手権戦
開催日 2009年7月13-16日
場所 ウィスコンシン州ミルウォーキー、ラマダ・ミルウォーキーホテル会議室
順位 1位 レイ・ロブソン 6点、2位 サルビユス・バーシス 5点、3位 アレックス・レンダーマン 4点、4-5位 サミュエル・シャンクランド、マイケル・リー 3½点、6位 ジョエル・バナワ 3点、7位 エリオット・リュー 2½点、8位 マックス・コールマン ½点
主審 フランク・ベリー
参加補助費 各選手に諸経費の援助として300ドルずつ

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(この号終わり)

チェス世界選手権争奪史(87)

第4章 ホセ・ラウル・カパブランカ(続き)

 1926年には新たに2選手が選手権戦への資格を主張した。ゼメリングの大会でオーストリアのルドルフ・シュピールマンがアリョーヒンを抑えて優勝した。そしてドレスデンの大会ではアーロン・ニムゾビッチがアリョーヒンとルビーンシュタインを抑えて優勝した。ドレスデンの大会の後ニムゾビッチはカパブランカへ正式な挑戦状を送った。

 この間にニューヨークでは1924年の大会主催者と同じグループがカパブランカへの次期挑戦者を見つける独自の計画に奔走していた。彼らは世界チャンピオンを含む6選手による番勝負競技会を提案していた。優勝者が、カパブランカが優勝した場合は準優勝者が、今や延び延びになっていたカパブランカのタイトル防衛の対戦相手として正式に認定されるものとしていた。これはまだ計画段階だったがブエノスアイレスのアルゼンチン・チェスクラブは1927年のいつか行なうカパブランカ対アリョーヒン戦の賞金として1万ドルを拠出することを発表した。しかしばかげた交渉事全般とは一線を画してずっと無関心を装っていたようなカパブランカは、アリョーヒンが1924年の挑戦をロンドン協定(まだ覚えている?)で要求されていた違約金の供託によって続行しなかったとして、ニムゾビッチに優先権があり1927年1月1日まで指定の500ドルの供託を許可することを考えていると回答した。ニムゾビッチがなぜ指定されたとおりにしなかったのかは不明だが1927年の元旦が来て過ぎていき、それと共にニムゾビッチの権利もなくなった。もちろんアリョーヒンはすぐに挑戦を再開し明らかに今回はカパブランカの不興を買わないように違約金についての規約に従った。

 ニューヨークでの競技会の取り決めが一般に公表されるにつれ主催者は事業の大きなへまをしていたことがますます明らかとなった。彼らはレーティとボゴリュボフを招待することを全く忘れていた。それにまだ多くの人によってタイトル戦への第1候補と目されていたラスカーへの招待状が郵便で迷子になった。ニューヨークの連中はラスカーを招待したが締切まで彼から返事が来なかったので代わりの招待状を送ったと主張した。一方ラスカーの伝記執筆者は1924年当時の不和が原因で彼らはラスカーを除外することにしていて、「かなりの大衆の声」に応じて土壇場になって前チャンピオンに招待状を送ったに過ぎないと言っている。その声はもちろん減少していった。ラスカーはこの事態にむっとし、カパブランカとの再戦を引き起こす手段をチェス界全般が提供できなかったことにむっとし、事実上実戦から引退した。復帰したのは経済的な必要性でそうせざるを得なくなった1934年だった。

(この章続く)