第2章 ビルヘルム・シュタイニッツ(続き)
気落ちし力尽きたアンデルセンは第14局も落とし、シュタイニッツがその時までほとんどあまねく世界最強と認められていた選手に激闘の末勝利を収めた。この勝利でシュタイニッツが世界選手権者と呼ばれる資格を得たかどうかはもちろん人によって異なるだろう。シュタイニッツ自身がそう呼ばれることを主張したかどうかも不明である。この予期しない勝利の後彼の名声はこの上なく高まった。しかし彼が新たに勝ち得た評価を現役の選手としてまたはジャーナリストとして利用しようとした形跡は何もない。この称号自体初めて世の中に現れたのは1886年のシュタイニッツ対ツーカートルト戦の記事で世界選手権が懸かっているという主張だった。しかし今日に伝わる記事でもシュタイニッツが選手権保持者でツーカートルトが挑戦者であるというようなことは何も記載されていない。もしシュタイニッツがアンデルセンに勝った時に実際に選手権者となったと主張していたらジョン・L・サリバン[訳注 米国の元世界ヘビー級チャンピオン]と似た立場に自分を置いたことだろう。ほぼ同時代のサリバンは酒場に飛び込んでは「俺はこの中の誰でもやっつけることができるぞ」とわめいていた男である[訳注 酒場で喧嘩相手を探してはトレーニングをしていたそうです]。たぶん少なくとも公然と彼の主張に異議を唱える者はいなかっただろうが、おそらく本気にする者もいなかっただろう。
シュタイニッツの次の対戦相手はイギリスのマスターでむらのあるヘンリー・バードだった。バードは今日では主に彼の名のついた布局(1.f4)とルイロペスの防御(1.e4 e5 2.Nf3 Nc6 3.Bb5 Nd4)とで知られていて、通常考えられているよりもはるかに強い選手だった。番勝負は7勝5敗5分の成績でシュタイニッツが勝ったが非常に不満だったに違いない。バードはこの後亡くなるまでモーフィーなら1ポーン1手のハンデでシュタイニッツと対戦できただろうと吹聴していた。この非常にとげのある評自体には特に付け加えることもないが、もしシュタイニッツが世界チャンピオンである素振りを示せば一部でどのように迎えられるかを示唆していた。
(この章続く)