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チェス世界選手権争奪史(26)

第2章 ビルヘルム・シュタイニッツ(続き)

 それからの何年かのシュタイニッツの戦績もぱっとしなかった。1867年ダンディーでの小さな大会ではドイツのマスターのノイマンに次いで2位だった。彼が初めてシュタイニッツ・ギャンビット(1.e4 e5 2.f4 exf4 3.d4 Qh4+ 4.Ke2!)を指したのはこの大会だった。そして生涯をとおして折に触れこの戦法を試した。同じ年のパリではイグナツ・コーリッシュに次いでまたも2位だった。この大会でも難解な戦型を導入しこれ以降たびたび用いることになった。1.e4 e5 2.Nf3 Nc6 3.d4(スコットランド試合)exd4 4.Nxd4 Qh4 この手で黒はポーンを得するが 5.Nb5 Bb4+ 6.N1c3 Bxc3+ 7.bxc3 Kd8 となって白には明らかに代償がある。しかしシュタイニッツは防御側には白の猛攻をしのぐ十分な手段があり戦力に優る黒は単純化して収局に持ち込むことができると主張していた。彼自身いくつかの試合でそれを実践した。最も有名なのはブラックバーンとの番勝負の第2局である。しかしチェスの歴史をとおしてそのような防御側の荷の重い戦法をやってみようという選手はほとんど現れなかった。

 シュタイニッツが実践したということ、それも嬉々として行なったということは何か劇的な変化が彼の棋風とチェスに対する見方全般に起こったことの現れだった。実際シュタイニッツが一流選手の棋歴にはっきりと起こった最も急激な棋風の変化を経験したのはこの期間だった。その変化とは17世紀のイタリア人から一部受け継いだ気ままな攻撃法から、シュタイニッツ以後の全ての偉大な選手に影響を与えた大局観指法の根本について教義する立場への変化である。1872年にはフィールド紙のチェス欄執筆者の職を手に入れた。これは立派な、彼の基準からすれば贅沢な地位で、実戦から一時的に引退することができた。その期間の彼の著作で現れてきたのはチェスジャーナリズムの新基準-彼の明白に優れた分析能力はそれまでたかが盤上競技の解明に捧げられることのなかった徹底性と完全性とによって支えられていた-それにゆっくりとであるがチェス自体の性質についての全体にわたる新しい理論だった。

(この章続く)

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2009年09月11日 08:42に投稿されたエントリーのページです。

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