第2章 ビルヘルム・シュタイニッツ(続き)
1882年シュタイニッツは実戦に復帰しその年にウィーンで開催された参加者18人の2回戦総当りの大きな国際大会に出場した。参加者には古くからのライバルのブラックバーンとツーカートルトと、少なくとも一人の有望な新顔のロシア人ミハイル・イワノビッチ・チゴーリンが含まれていた。それから選手としては二流どころのシモン・ビナベルもいた。彼は今日では主に彼の名を冠したフランス防御の人気戦法として記憶されている(1.e4 e6 2.d4 d5 3.Nc3 Bb4)。しかし1882年のウィーンは彼が大活躍した時で、34局の長丁場が終わった時にはシュタイニッツと首位を分け合っていた。シュタイニッツの出だしは非常に悪かった。そして大会の折り返し時にはやっと11位につけていた。しかし彼はツーカートルト戦とチゴーリン戦での惨敗にもめげずに粘り強さを発揮し最後には首位に追いついた。ビナベルとの優勝決定2番勝負の1局目にも負けたが2局目に勝ち優勝を分け合った。
次にシュタイニッツは翌年ロンドンで開催された大会に出たがツーカートルトに3点も離されての2位だった。10年以上前に若いツーカートルトはシュタイニッツにこっぴどく負かされていたが、この大会の結果によってシュタイニッツとの番勝負の候補に躍り出た。二人の間で長くしだいにとげとげしくなる交渉が始まった。交渉のほとんどはどちらを選手権者としどちらを挑戦者とするのかということに集中していた。どちらも母国語はドイツ語だったが気楽にほとんど論争のための英文を書くことを学んでいた。それぞれ英国と米国のいろいろな新聞に多くの手紙を書き送り相手が決定的な対決をどのように避けているかを説明していた。
(この章続く)