第2章 ビルヘルム・シュタイニッツ(続き)
1883年シュタイニッツは米国を長期間旅行した。チェス愛好者たちから熱狂的に歓迎されたことが契機となってイングランドとロンドン言論界の敵たちからの「文章のやじ」を見捨てて米国に永住した。1855年には「国際チェス雑誌」を創刊し、同じ年の終わり頃にはついに世界選手権戦の条件についてツーカートルトと合意に達した。
ヨハネス・ヘルマン・ツーカートルトは1842年9月7日にポーランドのルブリンでポーランド人の母とドイツ人の父との間に生まれた。13歳の時に一家はブレスラウに引っ越し、そこで彼は何年か後に大学生だった時にアドルフ・アンデルセンのチェスの門下生になった。すぐにチェスに熱中するようになったが学業を止めることはなかった。1865年にはブレスラウ大学から医学の学位を授与された。
ツーカートルトの業績の一覧を眺めるだけでも19世紀の最も驚異的な人間の一人であるという評価がうなづける。12ヶ国語に通じていた。神学、刑務所改革、音楽などの多彩な主題の執筆者。当時のホイストの名人の一人。フェンシングと射撃の達人。それから兵士にもなった。プロシア軍で3度の戦争に加わり9個もの勇猛勲章を授与された。本書の冒頭の段落に記述されているように1886年1月のその日に、全人生をチェスに捧げてきたシュタイニッツが世界選手権を懸けて対局していたのはこのルネッサンス的万能人間だった。
番勝負の勝者は引き分けを数えずに最初に10勝をあげた者であることが決められていた。対局は米国の3都市で行なわれることになっていた。ニューヨークから始まりどちらかが3勝を挙げたところでセントルイスに移り最後はニューオーリンズで行なわれることになっていた。番勝負が行なわれている時点でシュタイニッツは50歳、ツーカートルトは44歳だった。
(この章続く)