第3章 エマーヌエル・ラスカー(続き)
しかしタラシュとの番勝負はほとんど避けられなかった。そしてついにドイツの2都市のミュンヘンとデュッセルドルフで1908年の8月から9月にかけて行なわれることになった。しかしその前に非常にとげとげしい交渉が延々と行なわれていた。二人の間の対立は激しく、タラシュが1894年のラスカーの挑戦をはねつけた時までさかのぼる。しかし他にも不一致があった。金銭もその一つである。タラシュは医者として裕福な生活で、必要ならば何も得られなくても対局する余裕があった。しかしラスカーはチェスが職業で、自分のタイトルを懸ける前に十分な金銭的取り決めを要求した。ラスカー自身がようやく待望の番勝負にこぎつけるまでの交渉の一端を次のようにかなり素朴に書き残している。
『1908年6月4日にコーブルクを訪れた。この小都市は石で築かれていることを忘れさせるほどで、庭園や樹木、川や家々の向こうの緑の丘はこの上なく印象的である。翌日私はゲプハルト博士、ドイツチェス協会書記のシェンツェル氏、それにテラー氏と会ってタラシュ戦の状況について話し合った。私の立場は以前に手紙で説明してあった。議論は2時間半続き、私が取り決めの大まかな文書に署名して終わった。
ベルリンで7月12日から。番勝負は引き分けは数えず先に8勝した者の勝ち。勝者は4千マルクの賞金を得、敗者は2千5百マルクの賞金を得る。ドイツチェス協会の指定する対局地に従うことによる、即ち入場料をすべて放棄することにより失う名誉の代償として私に7千5百マルク。』[ハナク著「エマーヌエル・ラスカー あるチェス名人の生涯」からの引用]
この走り書きはラスカーの詩的な性格をかいま見せたことよりも、世界チェス連盟の創設以前の古きよき時代に世界選手権戦がどのように設定されたかを示す方により価値がある。さらに現代の記述を読むことから当時実際に何が起こっていたかを判断することがいかに難しいかを如実に示してもいる。最後の文章が何を意味しているかはまさに誰にも分からないことである。
(この章続く)