第3章 エマーヌエル・ラスカー(続き)
世界中のチェス愛好者にこのニュースが知れ渡る前に同程度の衝撃が1912年に起こった。それはアキバ・ルビーンシュタインがサンセバスティアン(短い期間毎年開催されていた)、ピエシュチャニ、ブレスラウ、ワルシャワそれにビリニュスで大きな5大会連続優勝したことだった。これは空前絶後の偉業だった。ルビーンシュタインはロシア領ポーランドの小さな町出身のずんぐりした陰気な人物でタルムード[訳注 ユダヤの律法と注解集大成本]学者としての経歴を捨てていた。最初の重要な大会に参加したのは1907年でそれから優勝につぐ優勝を重ねた。カパブランカとルビーンシュタインのような二人の若手の出現は、ある有力権威者たちの言うところの西欧文明の残りが老衰の断末魔にいる時にチェス界に最も強烈な興奮をもたらしたに違いない。
カパブランカにせよルビーンシュタインにせよもちろん当然の挑戦候補だった。そしてまもなくカパブランカがチャンピオンに番勝負の条件を提示するよう要求した。ラスカーはそれに応じて提示したが、当初の条件はまともな挑戦者ならとても飲めないような代物(しろもの)だった。番勝負はタイトル保持者の指定する年月日と場所で行なうことになっていた。試合数は最大30局で先に6勝した方が勝者だった。30局終了した時点で互角の成績または一方が1勝しか差をつけていないならば番勝負は引き分けでチャンピオンのタイトル防衛だった。実際番勝負が互角で終了した場合は、チャンピオンが特権で額を決める賭金は出資者に返金され、チャンピオンが挑戦者に彼の勝局ごとに250ドル、引き分けごとに75ドル払い、番勝負の出版権はすべてチャンピオンに属することになっていた。ラスカーの案には他にも議論の的になる点があった。それは挑戦者が2千ドルの違約金(!)を供託することと持ち時間が12手につき1時間と異常に長いことだったが、2勝差で勝利者が決まるという例の規定はもちろんその最たるものだった。
しかしカパブランカは十分な時間があれば2点差でラスカーを負かせる自信を持っていた。主として異議があったのは30局という制限で「この条件の不公平さは明らかである」と返事を書いた。ラスカーは新聞での声明で反論しカパブランカの言葉を「不快で無礼である」と決め付けた。それで交渉は当分の間沙汰やみになった。
(この章続く)