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チェス世界選手権争奪史(78)

第4章 ホセ・ラウル・カパブランカ

 人間の精神の多くの限界の中でも現代の世界で最もしばしば明らかなのは、いかなる規模の出来事も漠然としか理解できないということである。第一次世界大戦では850万人が亡くなった(ベルダンの戦いだけでほぼ50万人)。しかしこれらの統計はその規模ゆえにピンと来ない。しかし我々は意義をいくらか理解できる個々の事例に光を当て象徴化することによって補っている。純粋に人間の言葉では1918年のクリスマスにカルル・シュレヒターが地元のウィーンで餓死したことはすべての統計よりも意味あることかもしれない[訳注 正しくは12月27日にブダペストで肺炎のため死去]。

 戦争期間中を米国で過ごしたカパブランカは1919年9月にヨーロッパに戻りヘースティングズ戦勝大会で優勝した。ラスカーとの交渉は速やかに再開されほとんど同じくらい速やかに決裂した。番勝負をオランダで行なうことを念頭に開かれたいくつかの会合も無駄になった。その後ラスカーによると1920年6月17日にブエノスアイレスのあるチェスクラブから5月15日付で同市での番勝負を開催する提案の手紙が届いた。ラスカーは返事で自分の条件を繰り返した。ブエノスアイレスの主催希望者は条件は挑戦者に不公平であるというカパブランカの主張を支持した。これに対してラスカーは降参してタイトルを放棄しカパブランカを後継チャンピオンに指名した。

 このタイトル放棄を額面どおりに受け取るわけにはいかない。それでもラスカーが本気だったという有力な証拠がある。いずれにしてもカパブランカとの論争で相手の方にほとんどまんべんなく同情が集まったことに憤慨していたのは明らかである。チェス界はもちろん番勝負を行なえとわめき続けていた。そしてハバナ・チェスクラブがカジノ賭博場と協同して、開催に2万ドル、チャンピオンに1万1千ドルの保証金を提案した時ラスカーは受諾した。勝者は先に8勝をあげた者で、試合数はさらに短く24局で、チャンピオンの当初の他の要求は黙って取り下げられていた。

(この章続く)

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2009年11月02日 09:01に投稿されたエントリーのページです。

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