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チェス世界選手権争奪史 アーカイブ

2009年08月16日

チェス世界選手権争奪史(1)

チェス世界選手権争奪史
モーフィーからフィッシャーまで

アル・ホロウィッツ著

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(左上から時計回りにモーフィー、ラスカー、フィッシャー、ボトビニク)

第1章 その起源

 1886年1月11日の午後、ビルヘルム・シュタイニッツとヨハネス・ヘルマン・ツケルトルトはニューヨーク市85番街の小さな部屋で待望のチェスの番勝負の第1局を指すために相対していた。賭けられているのは世界選手権とそれぞれの側の2千ドルである。合計4千ドルがかかっていたのは前の晩に両選手がルイジアナ州ニューオーリンズのチャールズ・F・バック議員に半額ずつを手渡していたからである。世界選手権が賭けられていたのは二人がそのように言っていたからである。番勝負の決着がついた暁には敗者が勝者を世界選手権者と認めるのは既定の事実だった。世界がそれを追認するかどうかは推測の域を出なかった。

 16世紀の中頃からこの方、その当時の最強選手と目されたチェス選手たちの名前が伝わっている。その中の一番最初はスペインの僧侶のルイ・ロペスである。現代の布局定跡で最もよく指されているものの一つには彼の名前が付けられている。母国では既に最強者と広く認められていた彼は1560年頃にローマに赴き-勝負の結果は不明だが-当時のイタリアの一流の選手たちと対局した。当時イタリアは世界のチェスの中心だった。今日でも適用されている規則がイタリアで定められたという有力な証拠がある。そしてポルトガルの達人のダミアノがイタリア語で著名なチェスの指南書を書いていた。ロペスはスペインに戻ってから自分で『チェスの自由な創造と指し方の技法の本』という指導書を書いた。その中で彼はチェス盤を相手の目に太陽の光が当たるように置くのがしばしば有利さをもたらすと説いていた。しかしロペスがローマで対局し負かしたカラーブリア出身のジョバンニ・レオバルド・ディ・ボナという男が再戦に日よけを持ってきたらしく、この善良な牧師と好敵手のグラナダ出身のアルフォンソ・セロンをフィリップ2世の庭園での対局で共に打ち負かした。

 17世紀の最も有名な選手はカラブレーゼ・ジョアッキーノ・グレコ(1600年?-1634年?)である。同時代の達人たちとのグレコの対戦成績は残されていない。彼の名声は1625年頃の指導書に書かれている、正着ではなくても華麗な手筋によるものである。それらが実戦に現れたものか単なる創作なのかは定かでない。

(この章続く)

2009年08月17日

チェス世界選手権争奪史(2)

第1章 その起源(続き)

 18世紀の最も名高い選手のフランソワ・アンドレ・ダニカン・フィリドールについてはもっと多くのことが伝わっている。彼は1726年生まれで、音楽家でありながらチェス選手としての経歴の方がはるかに華やかだった。22歳の時には最もよく知られた『チェスの分析』を著した。そしてその頃から1795年に亡くなるまで世界の最強の選手としてあまねく認められていた。しかし彼自身は一度も世界一を標榜したことはなかったし、他の誰も彼がそのような称号にふさわしいとことさら触れ回っていなかったことには注意しておかなければならない。

 フィリドールのよく知られた「ポーンはチェスの魂である」という金言は彼の実戦理論の典型的な指針である。彼はポーンの形に特別の注意を払い、戦力をゆっくりと注意深く展開することを提唱した。彼の指したとされる試合には、実戦における精密で退屈になりがちな陣形をめぐる捌きへの彼の構想が如実に示されている。自分の著作と実戦ではイタリア派の考え方に必要な修正を部分的に施していた。イタリア派の実戦理論は敵キングへの直接攻撃を目指した、駒による指し方がほとんどを成していた。フィリドールは成功を収めたにもかかわらず彼の理論はほとんど直接的な影響を及ぼさなかった。彼の死後、名の通った選手たちはイタリアから直接受け継いだ気ままで手筋主体のチェスを指していた。

 19世紀初めもパリは相変わらずチェス界の中心地だった。それはA.ルブルトン・ドシャペルの才能と、彼の弟子で引けを取らない才能のL.C.マエ・ド・ラ・ブルドネによるところが大きかった。ブルドネはアイルランド人のアレグザンダー・マクドネルといつ終わるとも知れない番勝負を争った。その試合はほとんどが荒っぽいギャンビットだった。しかしドシャペルはいつしかチェスから身を引きトランプ遊びのホイストに熱中するようになった。そして犠牲の着想が特徴のドシャペル・クーを創始した。ラ・ブルドネが1840年に死去した時勢力のバランスはイギリスに移った。

(この章続く)

2009年08月18日

チェス世界選手権争奪史(2)[参考]

 カスパロフ著『Garry Kasparov on my Great Predecessors Part I』(カスパロフの偉大な先人たち 第1部)、Everyman Chess 発行
この本にフィリドールの著書『チェスの分析』からの抜粋が掲載されています。その棋譜を見るとフィリドールの指し方は現代風の指し方であることが分かります。

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 「ポーンは前面に、駒はその後方に」この簡潔な表現がフィリドールの戦略構想だった。彼の著書からこれをよく表している典型的な例を紹介しよう。

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23.Ng3(f4-f5 と突く狙い)23...Ne3

 白駒の連携を断ち切り白ポーンの威力を抑えるためにナイトが跳びこんだ。白はgポーンを突くことによりそれを狙っていた。ここで白はルークを犠牲にして黒の意図をくじく。(フィリドール)

24.Rxe3! dxe3 25.Qxe3 Rxa2(25...Rae8 と備えるほうが頑張れるがそれでも白が優勢である)26.Re1!

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 これは f4-f5 と突いた時にeポーンが取られないようにするためである。(フィリドール)

26...Qxb3 27.Qe4 Qe6 28.f5!

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28...gxf5 29.gxf5(フィリドールの理想が実現した)29...Qd5 30.Qxd5+ cxd5 31.Bxb5(白は交換損しただけで代償にポーンを得ていないが連結パスポーンが非常に強力である)31...Nb6

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32.f6

 「白枡ビショップを持っている時はポーンを黒枡に進めるのが良い。黒枡ビショップの時は白枡である。そうすれば敵駒がポーンの間に入ってくるのを防ぐことができる。」これはフィリドールの金言の一つで、後にシュタイニッツによっても唱えられた。

32...Rb2 33.Bd3 Kf7 34.Bf5 Nc4 35.Nh5

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 黒は e5-e6 突きが防げない。

35...Rg8+ 36.Bg4 Nd2 37.e6+ Kg6 38.f7

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 「これでe6のポーンがクイーンに昇格して白が勝つ。」例えば 38...Rf8 39.Nf4+ Kg7 40.Bh5 から e6-e7 である。

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 フィリドールの構想は同時代のはるか先を行っていたため、誰からも理解されず追随者が何十年も現れませんでした。将棋では升田幸三・実力制第四代名人が同時代のはるか先を行っていたと言われています(羽生善治・将棋名人が対談書でそう言っています)。

2009年08月19日

チェス世界選手権争奪史(3)

第1章 その起源(続き)

 19世紀のイギリスで主導的な役割をはたした選手はハワード・スタントン(1810年-1874年)で、カーライル出身の五代目伯爵フレデリック・ハワードの私生児といううわさだった。人はスタントンのことを知れば知るほど好きでなくなっていく。彼の経歴は劇場から始まった。そこで俳優としての才能を身につけたらしく彼の後半生に大いに役立つことになる。しかし彼の関心はすぐに批評に向けられシェークスピアの権威と認められるようになった。チェスに転じたのは晩学の30歳で、たちまちロンドンの一流選手になった。そして1843年にフランス人のサン・タマンとの番勝負に勝ち世界最強と称してもおかしくない理由を得た。しかし彼の本当の強みはジャーナリズムにあった。1841年には『チェス新聞』を創刊した。その紙面と、1844年からは『ロンドン写真ニュース』紙の寄稿欄でチェス界全般の意見をまとめることに努めかなりの成功を収めた。そのためには一流のチェス記者としての権威をビクトリア朝に特有な大言壮語と結合させた。後述するように彼はこの調子でポール・モーフィーを不当におとしめた。

(この章続く)

2009年08月20日

チェス世界選手権争奪史(4)

第1章 その起源(続き)

 チェス選手としてのスタントンについては客観的に評価するのは不可能だろう。あんなに弱い者があれだけの成功を収めてあれほど長く影響力を発揮したのは信じられないほどである。1851年ロンドン大会の棋譜集が当時15歳のモーフィーのもとに届いた時、この少年は表紙の「編集 H.スタントン様、『チェスの手引き』『チェス愛好家の友』等の著者」という説明の下に、関連性のない括弧で「(及びへぼチェス)」となぐり書きしたい衝動にかられた。確かにへぼの腕前だし、凡庸な棋風が本当に鼻につくぎょうぎょうしさと一緒になっていた。スタントンの成功の秘訣は対戦相手を注意深く選んだことにあった。どのように注意深かったかはすぐに明らかにされる。彼の棋歴で一度だけ注意深さが欠けたことがあった。

(この章続く)

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訳注 著者はスタントンを本当に鼻持ちならないやつのように書いていますが、皆そのようにみなしているわけではありません。

『The Oxford Companion to Chess』第2版、1992年
David Hooper、Kenneth Whyld 共著
オックスフォード大学出版局

 この「チェス百科事典」にはスタントンについて否定的なことは書かれていません(客観的に書かれている印象を受けます)。それどころか「ホロウィッツ」の項には次のような記述があります。

『彼はいつも共著者に対して気配りがあるわけではなかった。例えば「The Golden Treasury of Chess」の編者の F.J.Wellmuth の死後棋譜を少し追加して自分の名前で改訂版を出版した。たぶん彼の最も面白い本は P.L.Rothenberg との共著の「The Personality of Chess(1963年)」だが、「The Complete Book of Chess(1969年)」という誤解を招く書名で再版された。』

 ホロウィッツは昔「Chess Review」誌を所有・発行していました。その後この雑誌は「Chess Life」誌と合併して「Chess Life and Review」誌になり現在は「Chess Life」として米国チェス連盟の機関誌になっています。スタントンと同じジャーナリストとして何か含むところがあったのかもしれません。

 「イングリッシュ・オープニングの創生」の(1)(2)でもスタントンは高く評価されています。

2009年08月21日

チェス世界選手権争奪史(5)

第1章 その起源(続き)

 1851年にスタントンはロンドンでチェスの歴史上初めての国際大会を開催した。おそらく自分が優勝できると思っていたのだろう。参加を招待された選手の中にアドルフ・アンデルセンという名前の目立たないドイツ人教師がいた。このロンドン大会の時アンデルセンは33歳で、ブレスラウのフリードリヒ一貫高校で数学の講師を務めていた。彼の評価は本国では既に確固たるものだったが、この大会に招待されたのは主として同国人のダニエル・ハルビッツとの番勝負で互角の戦績の実力を買われたためだった。イギリスで彼が優勝の有力候補と考えた者は多くなかったし、ましてやスタントンはつゆほども考えていなかったと推測しても間違いないだろうしある意味では愉快である。

(この章続く)

2009年08月22日

チェス世界選手権争奪史(6)

第1章 その起源(続き)

 この大会は一連の番勝負として行なわれた。第1回戦は引き分けを数えず最初に2勝をあげた者を勝利者とした。このようなやり方が可能だったのは当時はあまり引き分けが生じなかったからである(大会をとおして85局中引き分けは7局だった)。第2回戦および以降の回戦では4勝をあげた者が勝利者となった。第1回戦で16人の参加者中8人が脱落した後、残った8人で8位入賞までの順位を決めるために一種のスイス式組み合わせが行なわれた(勝者同士、敗者同士が対戦した)。アンデルセンはキーゼリツキーを2勝0敗1分、センを4勝2敗0分、スタントンを4勝1敗0分と次々に破り、決勝戦でイギリス人のマーマデューク・ワイビルを4勝2敗1分で下した。

(この章続く)

2009年08月23日

チェス世界選手権争奪史(7)

第1章 その起源(続き)

 スタントンには運営を行いながら対局をするという不利な条件があったのはもちろんだが、普段よりもできが悪かったとは特にいえない。それでも彼はただちにアンデルセンに挑戦を申し入れた。アンデルセンは挑戦を受けたいのはやまやまだったが教職のために帰国しなければならなかった。二人は将来おそらくはドイツで番勝負を戦うという漠然とした約束を交わした。1853年にスタントンから全世界のチェス選手に向けて150ポンドを賭けて21番勝負を争う挑戦状が発せられた。スタントンはこれはアンデルセンを標的にしたものであることを公言していた。挑戦を受ける者が誰も現れなかった時スタントンは実戦から引退した。しかし残念なことにジャーナリズムからは引退しなかった。

(この章続く)

2009年08月24日

チェス世界選手権争奪史(8)

第1章 その起源(続き)

 1851年のロンドン大会で優勝したアンデルセンを初代世界チャンピオンとみなすチェス史研究家もいる。しかし彼自身はそのように名乗ったことはなかったし、スタントンも公式に標榜したことはなかった。しかしスタントンと対照的にアンデルセンは控えめででしゃばらない人物だったようである。過激なまでに攻撃的で戦いを好む棋風とは裏腹に彼は穏やかな気質だった。19世紀全般に特有なその棋風について元世界チャンピオンのマックス・エーべ博士は次のように書いている。

『戦力、その中でも特にポーン、はほとんど重きを成さなかった。ギャンビットは特に好んで指され、他の序盤戦法も同じような感覚で扱われた。すべてが攻撃と反撃に向けられていた。受身の指し方、防御、捨て駒の拒否、ポーン横隊の形成のような「みっともない」目的に注意を払うこと-このようなことやその考え方すべてが19世紀前半のチェス選手の心理から除外されていた。彼らは手筋の美しさに魅了され、実際この分野において無数の傑作が生み出された。このような気風の最高の輝かしい主唱者がアドルフ・アンデルセンだった・・・[マックス・エーべ著「チェスの棋風の形成」]』

 アンデルセンの最も有名な試合、いわゆる「不滅の局」、は1851年にキーゼリツキーと対局したときのもので(ロンドン大会とは別)、同様に名高い「常緑の局」は1852年にベルリンでJ.デュフレーヌと対局したときのものである。これらの試合は霊感を受けた野人というエーべ博士のアンデルセン評を裏打ちしている。実際の競技会で指された彼の名局はまた別である。アンデルセンの試合には今日の目から見れば当然のような大局観の誤りがあるが、戦略的な観点に無知だったわけでは全くなく、局面の状況によっては落ち着いた指し方をすることもできた。

(この章続く)

2009年08月25日

チェス世界選手権争奪史(9)

第1章 その起源(続き)

 1851年に開催された初めての国際大会はよく現代チェスの始まりと考えられている。そのような区分はいつも恣意的なもので、他の時点を選んでも妥当に思われる。例えばポール・モーフィーの生まれた1837年6月22日である。ある人間の誕生がある時代の始まりを告げるということは、その人間の影響がいかに大きいかということである。生涯でモーフィーのチェスにかかわった年月はたった10年で最も活躍したのもほぼ2年にすぎないにもかかわらず、彼がいなかったら今日のようなチェスは考えられないといってもほとんど誇張ではない。

 ポール・チャールズ・モーフィーはルイジアナ州最高裁判所の判事を務めていたアロンゾ・モーフィーの息子として生まれた。モーフィー家はスペイン、フランスそしてたぶんアイルランド人の家系の血が入り混じっていて、南北戦争前のニューオーリンズの社交界で確固たる地位を占めていた。当時のニューオーリンズは国際的な中心地で、文化のいくつかの分野にとって好都合なところだった。チェスもその中にあり、米国の他の都市と比べても引けを取らなかった。モーフィーの幼少期は同じ階層の他の子供と比べてもほとんど変わりがなかった。彼は私立学校に通い社交上のたしなみを身につけていた。ひとつだけ違っていたのは12歳かその頃に市の最強のチェス選手になっていて、おそらく全米でも最強だった。ポールは10歳の時に父からチェスの指し方を習いすぐに一族のチェスの楽しみの中心となった。父、おじのアーネストそれに母方の祖父は皆チェス好きだった。それからまもなく大人たちがポールをニューオーリンズのチェス仲間のところに連れて行った。対局机の高さに合わせるために椅子に本を2冊ほど敷かなければならなかったがすぐに市の最強選手たちを負かすようになった。

(この章続く)

2009年08月26日

チェス世界選手権争奪史(10)

第1章 その起源(続き)

 1850年にハンガリーの実力者で当時40歳のヨハン・ヤコブ・レーベンタールはニューオーリンズを訪れ少年と2局対戦し、結果はモーフィーの1勝1分だった。レーベンタールはずっと後になってからモーフィーの試合の本を出版することになるが、この時のことを自分の指し盛りはとっくに過ぎていたが「それでもポール少年の立派な結果は子供の成し遂げることのできた驚異的なほど高度の技術を示している」と書いている。[E.G.サージャント著『モーフィーのチェス対局集』からの引用]

 1850年12月にモーフィーはアラバマ州モービル市近郊のスプリングヒルにあるイエズス会の経営するセントジョゼフ大学に入学した。1854年に卒業した後もう1年同大学で主に数学と法律を学んだ(17歳)。そして本気で法律を勉強するためにルイジアナ州の大学に進んだ。在学中に父が亡くなった。1857年20歳の時ルイジアナ弁護士会への入会を認められた。彼のすごさは、うわさかもしれないが、州の民法をほとんど暗記していて空で言えたことだった。

 弁護士試験に合格した後青年モーフィーは自分自身へのほうびに休暇をとることにした。符節を合わせたようにすぐに素晴らしい機会が巡ってきた。ニューヨークチェスクラブが第1回アメリカチェス大会を開催することを決めていて。国内の一流選手がみな招待された。もちろんモーフィーは14勝1敗3分で楽に優勝した。正式の大会以外にも数え切れないほどの「真剣な」即席試合や模範試合を駒落ちや目隠しなどもまじえて指しそのほとんどで勝った。モーフィーは大会閉幕後の数ヶ月ニューヨークに留まり1ポーンと1手のハンデでニューヨークチェスクラブの誰彼となく対局した(C.H.スタンリーとはそのハンデで短い番勝負を指し4勝1敗だった)。そして12月にニューオーリンズに帰郷した。帰ってからは1ポーンと1手のハンデをアメリカのどの選手にも広げたが挑戦する者は誰もいなかった。

(この章続く)

2009年08月27日

チェス世界選手権争奪史(11)

第1章 その起源(続き)

 モーフィーから挑戦状を叩きつけられた人たちの間に嫌悪感を引き起こさなかったのは現代の選手たちからすれば確かに不思議である。今日では駒落ち対局を指定することは大変失礼なことと考えられている。駒落ちがふさわしいと考えられるような場合でさえそうである。しかし事実だろうと思い込みだろうと侮辱に復讐するためにまだ決闘が行なわれていた時代に、モーフィーの絶対的な強さの言明は何の反感も呼び起こさなかった。アメリカの他の選手たちはモーフィーのような卓越した選手が自分たちの中から急に現れたことにただ喜び彼の天才に魅了されるだけで、誇り以外何も感じなかったようだった。ある場合は少なくとも盲目的愛国心と結びついていないとも言えなかった。アメリカ大会での勝利からまもなく米国チェス協会はモーフィーのために旧世界の最強者たちに対して挑戦をもくろんだ。1857年12月26日付けの「ロンドン写真ニュース」紙の定期寄稿欄でハワード・スタントンはそのような挑戦状がまもなく送られてくるといううわさがあることを明かした。そしてその内容はヨーロッパのどの選手でもよいからニューヨークまで来て米国チャンピオンに挑戦し勝ったら2千ドルから5千ドルの懸賞金がもらえるというものらしいと報じた。スタントンは自分自身のためにもヨーロッパチェス界全体のためにもこれを受けなかった。

 『ロンドンかパリでなら番勝負に応じるヨーロッパチャンピオンもきっといるだろう。しかしヨーロッパの最強選手たちはプロのチェス選手ではなく大事な仕事に就いているのだから米国へ船で往復する時間的出費はとうていできないのである。』

 これはもちろん理不尽な態度ではない。しかしどんなに遠まわしであってもその言わんとするところは、モーフィーは時間に無頓着にチェスだけを指していられるやつでそれで人を困らせてやるようなやからであるということだった。

(この章続く)

2009年08月28日

チェス世界選手権争奪史(12)

第1章 その起源(続き)

 ニューオーリンズ・チェスクラブはそれでもひるまずにさらに次の手を打った。1858年2月にスタントンに手紙を送りニューオーリンズに来てモーフィーとの番勝負を戦うよう招待した。賞金は5千ドルでそのうち1千ドルは負けてもスタントンに与えるとした。スタントンは仕事と渡航の困難さ-実際その頃は大変だった-を理由に辞退し、同時にロンドン写真ニュース紙に次のような寄稿記事を書いた。

 『我々がその技量に感服しているところのモーフィー氏がもしヨーロッパの勇敢なチェス紳士たちの間で名をあげることを望んでおられるならば来年自分の方から来られるのがよろしい。そうすればわが国、フランス、ドイツそれにロシアで、何度も耳にしたに違いない名前の多くのチャンピオンたちと対戦し自分の優れた腕前に名誉を得る機会が得られるであろう。』

 米国人青年がイギリスに来た時にスタントン自身がモーフィーと対局する気があってこのようなかなり横柄な文章を書いたのかどうかは疑わしい。確かなことはモーフィー自身が待望の番勝負のためにこの英国人の本国に行きさえすればそれがかなうと解釈したことだった。そこでモーフィーはニューヨークに行き1958年6月9日に蒸気船「アラビア」号に乗ってリバプールに向かった。

(この章続く)

2009年08月29日

チェス世界選手権争奪史(13)

第1章 その起源(続き)

 モーフィーがリバプールに着いたのは21歳の誕生日前日の6月21日だった。ロンドンに着いたのは誕生日だった。そしてほとんど間をおかずに市内のチェスの中心地巡りを始めた。ストランドのディバン、キングストリートのセントジョージ・クラブ、続いてラスボーン・プレースのフィリドール・チェスルームズ、コーンヒルのロンドン・チェスクラブという具合だった。モーフィーが初めてスタントンに会ったのはセントジョージ・クラブでだった、モーフィーの遠征にはニューヨークで知り合い「ヘラルド」紙に記事を書いたフレドリク・エッジが同行し後に伝記も書いた。同記者によるとモーフィーは生来の内気から対局を申し込まれるまで待つ習慣を捨てスタントンに非公式の試合を提案した。スタントンはオスカー・ワイルドが言ったかもしれないが用事があることを理由に断わった。そしてその後も固辞し続けモーフィー組が勝った2局の相談チェスを除いて二人は決して対局することがなかった。

 モーフィーはその夏の大半をロンドンの選手との非公式試合と2回の番勝負で過ごした。番勝負の一つは対レーベンタールで、彼とは9年くらい前にニューオーリンズで対局していた(今回はモーフィーの9勝3敗2分)。もう一つはジョン・オーエン尊師との1ポーン1手のハンデ戦だった(モーフィーの5勝0敗2分)。スタントンとの番勝負の延々と続く交渉の細部は特に最終的な結末を考慮すればいくらか本題とずれていた。獲物をやり込めようとするモーフィーの努力は無駄だったと言っておけば事足りるだろう。そして両者の番勝負ははたして行われるのかという問題を残したままモーフィーは9月初旬にパリに向けて旅立った。

 大陸で期待されていたのはスタントンよりも盤上での戦いを切望している選手たちとの対局だった。具体的にはアンデルセンとの番勝負が約束されていた。しかし対戦を望む他の選手たちもやってくるはずだった。パリに到着してまもなくモーフィーは名高いカフェ・ド・ラ・レジャンスに向かった。そこは昔ボルテールとナポレオンが根城としていた所で、ダニエル・ハルビッツに非公式対局で負け二人はすぐに番勝負を行なうことで合意した。。ハルビッツは最初の2局に勝ち(エッジは2局とも前の晩モーフィーが市内見物のため遅くまで起きていたと書いている)、その後の3局に勝った。そこでハルビッツの体調不良のため10日間中断された。再開後ハルビッツは第6局も負けすぐにまた中断された。最終的にモーフィーの5勝2敗2分になったところでハルビッツが勝負を放棄した。モーフィーは彼らしくこの賭け金を使ってアンデルセンのブレスラウからパリまでの旅費を負担した。

(この章続く)

2009年08月30日

チェス世界選手権争奪史(14)

第1章 その起源(続き)

 しかしアンデルセンは教職に拘束されていて12月半ばまでパリに旅立てなかった。この間にモーフィーはパリのアマ選手たちとの非公式試合(その中にはブランズウィック公爵とイズアール伯爵を「セビリアの理髪師」上演中のオペラ席での有名な対局で負かした試合もある)、目隠し対局、スタントンとの手紙によるだらだらと続く交渉で時を過ごした。スタントンはその間に「ロンドン写真ニュース」紙の寄稿欄でモーフィーを非難していた。これに嫌気がさしたモーフィーはクリスマスに間に合うようにニューオーリンズに戻ることを口にしていた。

 モーフィーの憂鬱はアンデルセンがパリに到着したことによって中断した。そして1858年12月20日ブルトゥーユ・ホテルで試合が開始された。この番勝負は引き分けを数えずに最初に7勝をあげた者が勝ちだった。どちらもかなり不利な条件を抱えていた。アンデルセンは何年も強豪と対戦していなかったためにひどい実戦不足だった。モーフィーは病気で発熱していて病床から初戦に駆けつけた。白番のモーフィーはエバンズ・ギャンビットを指した。しかし・・・ 1.e4 e5 2.Nf3 Nc6 3.Bc4 Bc5 4.b4 Bxb4 5.c3 Ba5 6.d4 exd4 7.O-O
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7...Nf6?(7...d6!) 8.e5?(8.Ba3!) 8...d5 9.Bb5 Ne4 10.cxd4 O-O 11.Bxc6 bxc6 12.Qa4 Bb6 13.Qxc6 Bg4
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となったところでは不利に陥っていた。

 ここでモーフィーは 14.Bb2? と指した(14.Be3 と指すしかないが 14...f6-/+ で形勢は良くない)。そして 14...Bxf3 15.gxf3 Ng5 と進んで黒の勝勢になった。結局アンデルセンが72手で勝った。

(この章続く)

2009年08月31日

チェス世界選手権争奪史(15)

第1章 その起源(続き)

 第2局で白番のアンデルセンはルイロペスを採用したが序盤で不利に陥った。しかし交換損の犠牲をはなって十分な反撃を確保し引き分けの収局に持ち込んだ。これで年長の選手が幸先のよいスタートをきった。

 しかし第3局はアンデルセンにとって災難だった。そしてこれが番勝負の転換点になった。白番のモーフィーはきっぱりと初戦のエバンズ・ギャンビットを放棄し第2局と同じルイロペスを指した。

白 モーフィー
黒 アンデルセン

1.e4 e5 2.Nf3 Nc6 3.Bb5 Nf6 4.d4 Nxd4 5.Nxd4 exd4
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6.e5 c6 7.O-O cxb5 8.Bg5 Be7 9.exf6 Bxf6 10.Re1+ Kf8 11.Bxf6 Qxf6
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12.c3 d5 13.cxd4 Be6 14.Nc3 a6 15.Re5 Rd8 16.Qb3 Qe7 17.Rae1
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17...g5? 18.Qd1 Qf6 19.R1e3 Rg8?? 20.Rxe6 黒投了
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 本局におけるアンデルセンの試合内容は部分的にしか説明がつかない。序盤の手順は驚くなかれドイツで研究され指されていた。モーフィーの 12.c3 はマックス・ランゲの 12.Na3 より良い手だった。しかし 17...g6 でなく唖然とする陣形上のポカの 17...g5 と2手後の戦術的見落としはアンデルセン自身の失策である。

 本局での不甲斐ない内容に非常に気落ちしたアンデルセンは次局から4連敗を喫した。第4局はアンデルセンの白番でまたルイロペスになり第2局と似た内容だった。モーフィーは今度は優勢からしっかりと勝ちを収めた。アンデルセンは第5局で中央反撃防御を採用したがひどい局面になり大いに奮闘したが抵抗も及ばなかった。第6局で白番のアンデルセンは皮肉にも自分の名前が付けられることになる 1.a3 を採り入れた。彼の着想は 1...e5 の後 2.c4 で色が逆のシチリア防御を指すことだった。これにより局面が開放状態になるのを防ぎモーフィーがひどく嫌う閉鎖型の試合に持ち込むことができた。この作戦(純粋な戦術派というアンデルセンの一般的認識とは結び付き難いのは確かである)はまんまと図に当たった。最初の試合では白が序盤から非常に優勢になりながら中盤で緩着を連発して負けた。

(この章続く)

2009年09月01日

チェス世界選手権争奪史(16)

第1章 その起源(続き)

 第7局は番勝負中モーフィーの一番の会心局になった。

中央反撃防御
白 モーフィー
黒 アンデルセン

1.e4 d5 2.exd5 Qxd5 3.Nc3 Qa5 4.d4

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4...e5

 局面が開放的になれば白の方が有利なのでこの手は明らかに時期尚早である。現代でこの防御を指す選手はほとんどいないが 4...Nf6 5.Nf3 Bg4 6.h3 の方がよく指されている。しかしこの後 6...Bxf3 でも 6...Bh5 7.g4 Bg6 8.Ne5 c6 9.h4(ボトビニク対コンスタンチノポルスキー、1952年全ソ連選手権戦)でも白が優勢である。

5.dxe5

 この黒の手に対する最も有名で面白い試合は1920年イェーテボリでのタラシュ対ミーゼス戦である。5.Nf3 Bb4 6.Bd2 Bg4 7.Be2 exd4 8.Nxd4 Qe5 9.Ncb5 Bxe2 10.Qxe2 Bxd2+ 11.Kxd2 Qxe2+ 12.Kxe2 Na6 13.Rhe1 +/- [訳注 「理詰めのチェス」第28局を参照]

5...Qxe5+ 6.Be2 Bb4 7.Nf3

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 シュタイニッツはこの手を不必要にポーンを犠牲にするとして批判した。実際そのとおりだが、公平さのために言えば完全に理にかなった手であることも事実である。

7...Bxc3+ 8.bxc3 Qxc3+ 9.Bd2 Qc5 10.Rb1 Nc6 11.O-O Nf6

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12.Bf4

 白はこの手でポーンを取り返し展開の優位を保つ。ハンガリーのマスターのゲーザ・マローツィはモーフィーの試合の著書で代わりに 12.Rb5 Qd6 13.Re1 O-O 14.Qc1 を推奨したがこれも非常に強力な手順である。このようにモーフィーはポーンを犠牲にしたことで批判され、それを取り返したことで批判された。これは自分の試合が何度も解説される選手の宿命である。ここでも二つの指し方の本当の違いは主として好みの問題である。

12...O-O 13.Bxc7 Nd4! 14.Qxd4 Qxc7 15.Bd3 Bg4 16.Ng5

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16...Rfd8?

 黒は応手が非常に難しい。サージャントは 16...Bh5 17.Ne4 Ng4 18.Ng3 b6 という手順を示したが 19.Rb5 で即白の勝勢である。それにしても明白な 16...Rad8 17.Qb4 Bc8 の方が実戦より良かった。

17.Qb4 Bc8 18.Rfe1

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18...a5

 18...h6 はマローツィによれば 19.Re7 Bd7(19...Rd7 なら 20.Bh7+!)20.Nxf7 Nd5 21.Nxh6+ gxh6 22.Bc4 Qc6 23.Qb3 Qg6 24.Bxd5+ Kf8 25.Qa3
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で白の勝ちになる。

19.Qe7 Qxe7 20.Rxe7

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20...Nd5

 20...h6 の方が良いが 21.Nxf7 Kf8 22.Rbe1 Nd5 23.R7e5 Kxf7 24.Bc4 となって形勢はやはり良くない。

21.Bxh7+ Kh8 22.Rxf7 Nc3 23.Re1 Nxa2 24.Rf4 Ra6 25.Bd3 黒投了

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(この章続く)

2009年09月02日

チェス世界選手権争奪史(17)

第1章 その起源(続き)

 第8局ではアンデルセンがまた 1.a3 を指し今度は51手で引き分けになった。これで巻き返せるかもしれないと考えたかもしれないが、第9局はそれに冷水を浴びせる結果になった。

シチリア防御
白 モーフィー
黒 アンデルセン

1.e4 c5 2.d4 cxd4 3.Nf3 Nc6 4.Nxd4 e6 5.Nb5 d6 6.Bf4 e5 7.Be3
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7...f5?(7...a6 については1971挑戦者決定戦のフィッシャー対ペトロシアン戦を参照)8.N1c3 f4 9.Nd5 fxe3 10.Nbc7+ Kf7 11.Qf3+ Nf6 12.Bc4 Nd4 13.Nxf6+ d5 14.Bxd5+
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14...Kg6?? (14...Ke7!) 15.Qh5+ Kxf6 16.fxe3! Nxc2+ 17.Ke2 黒投了
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 この惨敗にもかかわらず第10局を(また 1.a3 で)勝ったのはアンデルセンの真の闘争心のあかしだった。しかしフランス防御の第11局はモーフィーが勝って必要な7勝目をあげた。

 この番勝負がチェスの歴史において名声を得ていた選手との唯一の対戦だった。この後モーフィーは数ヶ月ヨーロッパに留まり時折指導対局をしたりいろいろな栄誉を贈られたりした。そして1859年5月に米国に帰国ししばらくの間は北東部に滞在した。ほとんどはニューヨークにいたがボストンやフィラデルフィアにも足を延ばした。この間に米国チェス界から限りない賛辞をおくられた。後に手のつけられなくなるあの忌まわしい幻滅の兆候が初めて現れたのはニューヨークでの宴会でだった。1859年5月25日にコロンビア大学での催しで彼は総額約1700ドルの象眼細工のチェス盤と金銀のチェス駒を贈呈された。ニューヨークチェス界の名士で歓迎委員会会長のチャールズ・ミード大佐がスピーチを行なった。その中で彼はチェスを職業と言いモーフィーのことをその最も輝かしい第一人者と呼んだ。モーフィーの伝記の一つには次のように記されている。

 『モーフィーはたとえそれとなくにせよプロ選手呼ばわりされることに異議を唱え、憤慨するあまりミード大佐を罵倒し狼狽させた。この思いもよらぬ事態に屈辱を受けたミード大佐はこれ以降モーフィーのいるところに姿を現さないようになった。』[チャールズ・F.バック著「ポール・モーフィー 彼の晩年」からサージャントの引用]

(この章続く)

2009年09月03日

チェス世界選手権争奪史(18)

第1章 その起源(続き)

 この異様なでき事は後の展開から考えて大きな意味を持っていた。モーフィーはまもなくニューオーリンズに戻り弁護士業を始めようとした。しかし後にモーフィーについての全ての執筆者が引用したようにバックによると誰もモーフィーのことを真に受けなかった。彼らは皆モーフィーを単なる偉大なチェス選手とみなしているだけだった。このようなことは明らかに本来あり得ないことである。チェスのように非常に著名で知的な娯楽で名を成した人間は他の分野でも有能であることを人に納得させるのにほとんど造作ないはずである。

 人生におけるモーフィーの苦労がまだ十分でないというかのように、バックはさらに次のように書いている。『彼はニューオーリンズの裕福できれいな令嬢に魅了され、共通の友人にそのことを打ち明けた。この友人はそのことを彼女に伝えた。しかし彼女は「たかがチェス選手」と結婚するなんてと一笑に付した。』サージャントはかなり率直に次のように付記している。『バックはモーフィーの晩年の話をまとめるにあたり彼の親戚や友人たちの助けを得た。』バックが公表しようと思えば他にどんな客観的な資料が今日に伝えられていたのかは知る由もない。

 これ以降モーフィーがしろうとの精神医学用語の被害妄想を発症したことは疑いない。この妄想は色々な形で現れた。まず義理の兄弟が自分の父の財産の一部をだまし取ったと確信するようになった。長く続いた訴訟(モーフィー自身が告訴し争った)はディケンズの小説「荒涼館」の挿話のようだった。かかった訴訟費用のために彼はほとんど無一文になった。その上訴訟は結局法廷から却下された。それから義理の兄弟が自分を毒殺しようとしていると思い込むようにもなった。

(この章続く)

2009年09月04日

チェス世界選手権争奪史(19)

第1章 その起源(続き)

 モーフィーは少なくとも1869年までは何らかの形でチェスを指していた。ほとんどは少年時代の友人チャールズ・モーリアンとのナイト落ちでの対戦だった。しかしそれも次第に嫌うようになり、晩年は彼にチェスのことを話題にすることさえできなくなった。実際にチェスが彼を狂気に追い込んだのかそれとも対戦を嫌がるのが単に狂気に付随したものなのかはもちろん分からない。いずれにしてもモーフィーの物語はチェス世界選手権の歴史年表の中で、世界最強であることを疑いなく実証した初めてのヨーロッパ遠征から凱旋帰国したところでちょうど終わりになった。彼は1884年7月10日に脳溢血で亡くなった。これによりチェス史の中で恐らく最も哀愁に満ちた章が静かに幕を閉じた。

 モーフィーが実戦から引退した後アンデルセンが再び最強の選手とみなされるようになったのはきわめて当然のことだった。彼はパリでの敗北から教訓を学んでいた。番勝負が終わった後すぐにおおっぴらに次のように述べていた。『卓越した技量を小さなガラス製の小箱に宝石のようにしまい、望む時にそれを取り出すなどということはとてもできるものではない。それどころか絶え間ない豊富な修練によってしか維持することができない。』[サージャントを始め多数の権威ある著者たちの引用だが元々の出典は不明]アンデルセンは1861年にロンドンを再び訪れ当時22歳の若いマスターのイグナツ・コーリッシュと番勝負を行なった。閉鎖型や準閉鎖型の布局を頼りにし、白番ではバード布局(1.f4)、黒番ではシチリア防御を指した。結果は4勝3敗2分で辛勝だった。翌年はオーストリアの有望な新参者のビルヘルム・シュタイニッツを含む当時の一流のマスターのほとんどが参加したロンドンの大きな大会で優勝した。しかし少し失望もあった。それはモーフィーの古い好敵手のルイス・パウルセンとの短い番勝負で引き分けたことだった。パウルセンはロンドン大会でアンデルセンに次いで2位に入った。それでも当時のアンデルセンは盤上でも盤外でも自分の人生に十分満足していたに違いない。1865年にはブレスラウ大学から名誉博士号を授与された。

(この章終わり)

2009年09月05日

チェス世界選手権争奪史(20)

第2章 ビルヘルム・シュタイニッツ

 青年ビルヘルム・シュタイニッツは1862年ロンドンでの大きな大会では6位に終わった。しかし時代に即した「オーストリアのモーフィー」というニックネームを付けられた棋風で何局かの名局を残した。彼が獲得したものは5ポンドがすべてであった。それまでほとんどその日暮らしを送ってきた者にとっても大した金額ではなかった。シュタイニッツは当時ボヘミアの首都でオーストリア・ハンガリー帝国の一部だったプラハで1836年5月17日に貧困の家に生まれた。両親は彼がユダヤ教の学者になることを望んだが、早くから数学に対する才能を示したために大学入学を目指すことになった。そして1857年ウィーン工業技術大学に入学した。年齢的に比較的遅かったが必要な入学金をかき集めるのに苦労したためだったらしかった。2年間の在学中に数学を教え時には文筆業に携わった。しかし次第に生活が困難になっていった。

 シュタイニッツがチェスを覚えたのは12歳の時だった。20歳の時までにはプラハで最強の選手になっていた。ウィーンで彼が熱中したのはチェスだった。学校を中退しプロになった。プロといっても最初は市内のカフェで小銭を賭けて即席のチェスを指しているだけだった。しかし当時チェスで食べていく最良の手段は後援者を見つけることだった。のちにあれほどマスターの実戦から駆逐しようとした派手な捨て駒の棋風でチェスを指していたのはこのためもあった。もっともその頃は手筋と危険を冒す指し方の才能を十分に発揮していた。

(この章続く)

2009年09月06日

チェス世界選手権争奪史(21)

第2章 ビルヘルム・シュタイニッツ(続き)

 シュタイニッツは次第にウィーンのチェス界で名をあげていった。そして1861年にはウィーンチェスクラブのチャンピオンになった。それは事実上オーストリアで最強であることを意味し、翌年ロンドンで開催される大きな大会に参加するための費用を出してくれる十分な後ろ盾が見つかった。ロンドンの大会の後シュタイニッツはイギリスに留まり、コーヒーハウスで対局して小銭を稼ぎ小さな大会に参加したり番勝負を行なったりした。1862年には今度ははるかに小さなロンドンでの大会に参加し7勝無敗で優勝した。同じ年にデュボワという名のあまり有名でないイタリア人選手と9番勝負を行ない5勝3敗1分で勝った。この番勝負が興味をもたれているのは、100年後にボビー・フィッシャーが「チェスライフ」誌(現在は「チェスライフアンドレビュー」)に毎月連載を書き始めた時最初がシュタイニッツ対デュボワ戦の解説だったからである(1964年4・7・8・11・12月号)。それ以前にフィッシャーが19世紀の棋譜と布局定跡、特にシュタイニッツのを研究していることは知られていたが、なぜこの番勝負を取り上げたのかは不明である。いずれにしてもシュタイニッツが番勝負の結果にもその内容にも満足しているはずはなかった。

 それからイギリスの才能のあるジョゼフ・ブラックバーンに7勝1敗2分ではるかに嬉しい勝利を収めた。さらにイギリスの二人のアマチュアとの番勝負、1865年ダブリンでの小さな大会、1866年の2度の英国チェス協会大会で勝った。これらのほとんど手当たりしだいの活動の結果どういうわけかアンデルセンとの番勝負が行なわれることになった。

 この番勝負がどのような経緯で行なわれるようになったか正確なところは分からない。たぶんシュタイニッツの果敢な駒捨ての指し方に感嘆した裕福な英国人が賞金を出す気になったと考えるのが妥当だろう。いずれにせよ賞金(勝者100ポンド、敗者60ポンド)が出ることになりアンデルセンは再びロンドンに渡った。

(この章続く)

2009年09月07日

チェス世界選手権争奪史(22)

第2章 ビルヘルム・シュタイニッツ(続き)

 番勝負が始まる前の賭け率は2対1でアンデルセン乗りが多かった。18歳の年齢差(シュタイニッツ30歳、アンデルセン48歳)は大衆の予想では大して関係なく、要はシュタイニッツは世界の最強選手と対等であると認めてもらうだけの実績をまだ何も残していなかったということである。言うなれば彼のその時までの一番の実績はアンデルセンの優勝した1862年のロンドン大会で6位に終わったことだけであった。だから初戦で白番のアンデルセンがエバンズ・ギャンビットで勝った時、集まっていた者たちにはやっぱりといううなずきしかなかったのに違いない。

 しかしシュタイニッツは個人にせよ集団にせよ大衆に迎合することはあまりなかった。ある逸話によるとある日向こう見ずの男がシュタイニッツに近づいて来て次のように言った。「この試合のあなたの指し方は全く理解できません。」「もちろんだとも」とシュタイニッツは答えたそうである。「猿が腕時計で遊んでいるのを見たことがありますか。」大胆さをもてあそぶかのようにシュタイニッツは第2局でキング翼ギャンビットの廃れた戦型を指して53手で勝った。

 シュタイニッツは第3局も、第4局も、そして第5局も勝った。1勝4敗となったアンデルセンは栄光の棋歴で2度目の災難に向かっているように見えたが1度目を思い起こしてもほとんど役にたつはずもなかった。その時の番勝負でも初戦を勝った後連敗を喫し、失地を回復するために必然的に必死の努力をしそしてやはり必然的に裏目に出た。恐らく彼は以前の相手と今回の相手との大きな違いを考えてみたことだろう。モーフィーはほっそりしてほとんど少女のような容姿と貴族のような態度だったが、シュタイニッツはずんぐりした体つきと攻撃的な性格だった。アンデルセンはモーフィーと対局した時から8歳年を取っていたが多くのことも学んでいた。第6局で彼はシチリア防御を指し積極的な防御と反撃を絡めて54手で勝った。

(この章続く)

2009年09月08日

チェス世界選手権争奪史(23)

第2章 ビルヘルム・シュタイニッツ(続き)

 この試合から一時的ではあるが戦いの流れが変わった。第7局で白番のアンデルセンはまたしてもエバンズ・ギャンビットを用い34手で勝って対戦成績を3勝4敗にした。第8局では十分な自信を持って 1.e4 に対し 1...e5 で応戦した。

キング翼ギャンビット
白 シュタイニッツ
黒 アンデルセン

1.e4 e5 2.f4 exf4 3.Nf3

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3...g5

 ボビー・フィッシャーの有名な記事(「米国チェス会報」1961年6月号の「キング翼ギャンビット破り」)のおかげで今では 3...d6 が普通に指されている。その要点の一つは 4.d4 g5 5.h4 g4 の後白が 6.Ne5 と指せないことである。しかしこの手順には他の未解決の問題もある。何百年にも渡る徹底的な研究と実戦にもかかわらずキング翼ギャンビットは未だに現在の関心事である。

4.Bc4 g4

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5.Ne5

 見るからに無責任そうな手の 5.O-O は「ムッツィオ・ギャンビット」である(実際のところ天才かばかでなければ誰も何時間も詳細に研究しないでこの戦型を指す者はいない。天才の中にさえ時々研究する者がいることが知られている)。ムッツィオ・ギャンビットは今日では早々と引き分けになると考えられている。

5...Qh4+ 6.Kf1

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 ここは黒にとって作戦の岐路である。この局面から派生するいろいろな戦型に名前を付けられている人たちは皆飽くことを知らない研究家のようだが、布局の本の中で彼らの頭脳の産物に与えられた簡単な注記を除けば完全に忘れ去られている。そのような戦型にはどこかしらに教訓がある。

6...Nh6

 これは「ジルバーシュミット・ギャンビット」である。アンデルセンはこの番勝負で4回この手を指し本局には勝ったが他の3局では負けた。この局面での最強手は 6...Nc6(ヘルツフェルト・ギャンビット。もっともここら辺の手順は一手一手に対して誰それの「手」と呼ぶ方が適切なようである)で、以下は 7.Nxf7(7.Bxf7+ Ke7 8.Nxc6+ dxc6 9.Bxg8 Rxg8 10.Qe1 g3 11.d4 f3 -/+)7...Bc5 8.Qe1 g3 9.Nxh8 Bf2 10.Qd1 Nf6 11.d4 d5 12.exd5 Bg4 13.Be2 Nxd4
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で黒の勝勢である(ケレスの研究による)。この局面では 6...c6 と 6...Nf6 もある手で、それぞれコクレーンとサルビオの寄与による(もっともこの戦型全体に対してサルビオ・ギャンビットと名付けられることがあるのはちょっと不可解である)。

7.d4

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7...d6

 アンデルセンは4局すべてでこの手を指した。もっとも当時既に 7...f3 より劣る手であることが知られていた。7...f3 の後の手順についてケレスは次のような面白い研究を披露している。8.g3 Qh3+ 9.Kf2 Qg2+ 10.Ke3 f5! 11.Nd3 fxe4 12.Nf4 Nf5+ 13.Kxe4 d5+ 14.Bxd5 Nd6+
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これで黒が優勢である(15.Kd3 なら 15...Bf5+、15.Ke3 なら 15...Bh6)。

8.Nd3 f3 9.g3

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9...Qe7

 この戦型の次の局でアンデルセンは 9...Qh3+? と指した。しかし 10.Ke1 と応じられて 10...Qg2?? には 11.Nf2 でクイーンが捕まってしまうことに気づいて 10...Qh5 と指した。しかしそれでも形勢は不利だった。

10.Nc3 Be6

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11.d5?

 第10局でシュタイニッツは 11.Bb3 と指した。もちろんその手の方がずっと良い手である。本譜の手は異筋で、無理筋の捨て駒の手筋への前触れだった。

11...Bc8 12.e5

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 この手と次のナイト捨ては一貫していてこの局面ではそう行くしかなくなっている。さもないと黒は ...Nd7 と ...Bg7 で中原の黒枡を支配してくる。しかし本譜の黒の応手は白の攻撃に対して十分すぎるほどだった。

12...dxe5 13.Nxe5 Qxe5 14.Bf4

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14...Qg7

 (レーベンタール推奨の)14...Qh5 は 15.Qd4 でわけの分からない乱戦になるので本譜の手の方がはるかに良い。アンデルセンは中原の黒枡の支配を維持する方を選び、巧みな捨て駒による反撃を用意していた。

15.Nb5

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15...Bd6

 15...Na6 は 16.Qe1+ Kd8 17.d6! で白が敵キングへの筋を開けることができるので良くない。

16.Qe1+

 16.Bxd6 cxd6 17.Nc7+ は 17...Kd8 18.Nxa8 Nf5 で黒の勝勢になる。

16...Kd8 17.Bxd6 cxd6 18.Qb4 Nf5 19.Bd3 Na6 20.Qa3 Nc5 21.Bxf5

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 ここで 21...Bxf5 と取ってくれば白はもちろん 22.Nxd6 と取って一挙に形勢が接近する。しかしアンデルセンはちょっとした予期できない手を用意していた。

21...Qh6!

狙いは 22...Qh3+ と 22...Qd2! である。

22.Bd3 Re8

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 再び ...Qh3+ からの詰みを狙っている。

23.h4 Qd2 24.Rg1 Re2! 白投了

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 この短手数の面白い試合でアンデルセンは対戦成績を互角にし、苦難の出だしから勝利への道を歩み始めたように見えた。次の試合にも勝って5勝4敗と勝ち越した。しかしシュタイニッツは後半生で彼の最も突出した性格となった不屈の闘志を発揮して-このまま崩れてしまうかもしれないところを-第10局で互角にし第11局で6勝5敗として先行し、またも相手を窮地に陥れたように見えた。しかしアンデルセンは第12局に勝ってまたも互角の成績にした。

(この章続く)

2009年09月09日

チェス世界選手権争奪史(24)

第2章 ビルヘルム・シュタイニッツ(続き)

 第13局でアンデルセンはエバンズ・ギャンビットをやめルイロペスを試みた。

白 アンデルセン
黒 シュタイニッツ

1.e4 e5 2.Nf3 Nc6 3.Bb5 Nf6(アンデルセンはモーフィー戦の黒番でこのベルリン防御を指したことがある[訳注 (15)を参照])4.d3(モーフィーは 4.d4 と指した。今日では 4.O-O が普通で 4...d6 ならばシュタイニッツ防御に戻る)4...d6
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5.Bxc6+?(白の最善手は 5.c3 で、その後 Nb1-d2-f1-e3/g3 と捌くが、シュタイニッツはまだこの捌きを創案していなかった。実戦のこの後の中盤戦で白は一貫して黒の弱体化したクイーン翼ポーンにつけ込もうとしたが、実際は弱いポーンではない)5...bxc6 6.h3 g6 7.Nc3 Bg7 8.O-O O-O 9.Bg5
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9...h6 10.Be3 c5 11.Rb1 Ne8 12.b4 cxb4 13.Rxb4 c5
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14.Ra4?(一貫した手だが効果がなかった。14.Rb1 と引くしかなかった)14...Bd7 15.Ra3 f5 16.Qb1 Kh8 17.Qb7 a5 18.Rb1 a4 19.Qd5 Qc8 20.Rb6 Ra7
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21.Kh2 f4 22.Bd2 g5 23.Qc4 Qd8 24.Rb1 Nf6 25.Kg1 Nh7 26.Kf1 h5
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(キング翼のこのようなポーンの暴風は通常はキング翼インディアン防御に現れ1950年代と1960年代前半に指された数多くの試合でお馴染みである。本譜でアンデルセンはよく守っている。26.Kf1 は後のナイトのg1引きの準備で、キングのクイーン翼逃走も可能になっている。しかし白駒の配置の悪さ、特にa3のルーク、はシュタイニッツほどの技量の攻撃的選手に対しては何をするのも困難にしている)27.Ng1 g4 28.hxg4 hxg4 29.f3 Qh4 30.Nd1 Ng5 31.Be1 Qh2 32.d4
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(立ち往生のルークを働かせようとしたが無駄に終わった)32...gxf3 33.gxf3 Nh3 34.Bf2 Nxg1 35.dxc5 Qh3+
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36.Ke1(36.Kxg1 Rg8 -+)36...Nxf3+ 37.Rxf3 Qxf3 38.Nc3 dxc5 39.Bxc5 Rc7
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40.Nd5 Rxc5 41.Qxc5 Qxe4+ 42.Kf2 Rc8 43.Nc7 Qe3+ 白投了
YFMF024I.JPG

(この章続く)

2009年09月10日

チェス世界選手権争奪史(25)

第2章 ビルヘルム・シュタイニッツ(続き)

 気落ちし力尽きたアンデルセンは第14局も落とし、シュタイニッツがその時までほとんどあまねく世界最強と認められていた選手に激闘の末勝利を収めた。この勝利でシュタイニッツが世界選手権者と呼ばれる資格を得たかどうかはもちろん人によって異なるだろう。シュタイニッツ自身がそう呼ばれることを主張したかどうかも不明である。この予期しない勝利の後彼の名声はこの上なく高まった。しかし彼が新たに勝ち得た評価を現役の選手としてまたはジャーナリストとして利用しようとした形跡は何もない。この称号自体初めて世の中に現れたのは1886年のシュタイニッツ対ツーカートルト戦の記事で世界選手権が懸かっているという主張だった。しかし今日に伝わる記事でもシュタイニッツが選手権保持者でツーカートルトが挑戦者であるというようなことは何も記載されていない。もしシュタイニッツがアンデルセンに勝った時に実際に選手権者となったと主張していたらジョン・L・サリバン[訳注 米国の元世界ヘビー級チャンピオン]と似た立場に自分を置いたことだろう。ほぼ同時代のサリバンは酒場に飛び込んでは「俺はこの中の誰でもやっつけることができるぞ」とわめいていた男である[訳注 酒場で喧嘩相手を探してはトレーニングをしていたそうです]。たぶん少なくとも公然と彼の主張に異議を唱える者はいなかっただろうが、おそらく本気にする者もいなかっただろう。

 シュタイニッツの次の対戦相手はイギリスのマスターでむらのあるヘンリー・バードだった。バードは今日では主に彼の名のついた布局(1.f4)とルイロペスの防御(1.e4 e5 2.Nf3 Nc6 3.Bb5 Nd4)とで知られていて、通常考えられているよりもはるかに強い選手だった。番勝負は7勝5敗5分の成績でシュタイニッツが勝ったが非常に不満だったに違いない。バードはこの後亡くなるまでモーフィーなら1ポーン1手のハンデでシュタイニッツと対戦できただろうと吹聴していた。この非常にとげのある評自体には特に付け加えることもないが、もしシュタイニッツが世界チャンピオンである素振りを示せば一部でどのように迎えられるかを示唆していた。

(この章続く)

2009年09月11日

チェス世界選手権争奪史(26)

第2章 ビルヘルム・シュタイニッツ(続き)

 それからの何年かのシュタイニッツの戦績もぱっとしなかった。1867年ダンディーでの小さな大会ではドイツのマスターのノイマンに次いで2位だった。彼が初めてシュタイニッツ・ギャンビット(1.e4 e5 2.f4 exf4 3.d4 Qh4+ 4.Ke2!)を指したのはこの大会だった。そして生涯をとおして折に触れこの戦法を試した。同じ年のパリではイグナツ・コーリッシュに次いでまたも2位だった。この大会でも難解な戦型を導入しこれ以降たびたび用いることになった。1.e4 e5 2.Nf3 Nc6 3.d4(スコットランド試合)exd4 4.Nxd4 Qh4 この手で黒はポーンを得するが 5.Nb5 Bb4+ 6.N1c3 Bxc3+ 7.bxc3 Kd8 となって白には明らかに代償がある。しかしシュタイニッツは防御側には白の猛攻をしのぐ十分な手段があり戦力に優る黒は単純化して収局に持ち込むことができると主張していた。彼自身いくつかの試合でそれを実践した。最も有名なのはブラックバーンとの番勝負の第2局である。しかしチェスの歴史をとおしてそのような防御側の荷の重い戦法をやってみようという選手はほとんど現れなかった。

 シュタイニッツが実践したということ、それも嬉々として行なったということは何か劇的な変化が彼の棋風とチェスに対する見方全般に起こったことの現れだった。実際シュタイニッツが一流選手の棋歴にはっきりと起こった最も急激な棋風の変化を経験したのはこの期間だった。その変化とは17世紀のイタリア人から一部受け継いだ気ままな攻撃法から、シュタイニッツ以後の全ての偉大な選手に影響を与えた大局観指法の根本について教義する立場への変化である。1872年にはフィールド紙のチェス欄執筆者の職を手に入れた。これは立派な、彼の基準からすれば贅沢な地位で、実戦から一時的に引退することができた。その期間の彼の著作で現れてきたのはチェスジャーナリズムの新基準-彼の明白に優れた分析能力はそれまでたかが盤上競技の解明に捧げられることのなかった徹底性と完全性とによって支えられていた-それにゆっくりとであるがチェス自体の性質についての全体にわたる新しい理論だった。

(この章続く)

2009年09月12日

チェス世界選手権争奪史(27)

第2章 ビルヘルム・シュタイニッツ(続き)

 シュタイニッツの教義についてはエーべ博士の記述が一番よく言い表している。

 『シュタイニッツは局面の均衡の原理を打ち立てた。一般にどんな局面にも両者にとって有利な点が見いだされる。これらの有利な点がほぼ打ち消しあう限り局面は均衡状態にある。それぞれの側は自陣の不利を最小限にするようにすべきである。例えば駒を良い地点に配置したり二重ポーンを解消したりという具合である。それと共に自分の有利な点を拡大すべきである。その間ずっと根気よく好機を待ちながら常に局面の均衡が自分の有利に傾くように努めるべきである。この段階で無理な手を指せば不利に陥る。

 均衡のとれた局面で正しい手を指していけば自動的に新しい均衡のとれた局面になる。この均衡はこちらが好手を指すことによって崩されるのではなく、相手が不正な手を指すことによって崩れるのである。・・・

 さらにシュタイニッツは局面の均衡が大きく崩れる前に攻撃を仕掛けることは正しくないだけでなく、そのような機会が来た時には攻撃して「よい」だけでなく攻撃「しなければならず」、さもないと有利は失われると説いた。[マックス・エーべ著「チェスの棋風の形成」]』

(この章続く)

2009年09月13日

チェス世界選手権争奪史(28)

第2章 ビルヘルム・シュタイニッツ(続き)

 これの問題点はもちろん相手が何も間違わないかもしれないということだった。両者が完璧に指せば試合は引き分けに終わる。ホセ・カパブランカのような選手ならばこの結果を冷静に受け入れることができるかもしれない。しかし少なくともシュタイニッツ自身と彼の後継者のエマーヌエール・ラスカーには受け入れ難いだろう。実戦ではシュタイニッツとラスカーは時に大きな危険をこうむるかもしれなくても信じられないような手数をかけて相手のミスを誘うことがあった。エーべ博士によって簡潔で論理的に言い表されているように、シュタイニッツの理論にはほとんど機械的と思えるところがあった。しかし盤上では1895年ヘースティングズ大会でのシュタイニッツ対ラスカー戦によく表れているようにその極みに達することもあった。
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黒の12手目の後のこの局面でラスカーは13.d5と指した。シュタイニッツは13.Nb8と引き14.h3に対してまた14...Bc8と引いた。さらに15.Nf5 Bd8と進み、大会記録誌の解説者のイジドール・ガンズバーグは次のように書いた。

 『黒はこれで盤端に向かっての戦略的行動を完了した。これが良い戦略ならば現代における展開の理論はすべて誤っているに違いない。しかし一つの事実は心に留めておかなければならない。すべての駒を基地に集中させた黒は確かに襲撃を受けにくく、その陣地に対して白が軽率に進撃すれば黒は白の戦線を壊滅させてきっと優勢を勝ち取ることができるだろう。』

 ガンズバーグは旧来の流派の選手だった。この文章の曖昧な表現にはモーフィーから駒を迅速に出し最良の地点に配置することを学んだことがうかがわれるし、彼の注釈には立派な抑制と思慮が現れている。もし白がうかつに攻撃すれば彼の企てははね返されただろうし、シュタイニッツの技量の受けの選手ならば特にそうだろう。しかしラスカーは組織的に自陣を強化し陣形の広さで大きな優勢を確保し-シュタイニッツはよく気にしないことが多かった-ついに勝利を収めた。

(この章続く)

2009年09月14日

チェス世界選手権争奪史(29)

第2章 ビルヘルム・シュタイニッツ(続き)

 1882年シュタイニッツは実戦に復帰しその年にウィーンで開催された参加者18人の2回戦総当りの大きな国際大会に出場した。参加者には古くからのライバルのブラックバーンとツーカートルトと、少なくとも一人の有望な新顔のロシア人ミハイル・イワノビッチ・チゴーリンが含まれていた。それから選手としては二流どころのシモン・ビナベルもいた。彼は今日では主に彼の名を冠したフランス防御の人気戦法として記憶されている(1.e4 e6 2.d4 d5 3.Nc3 Bb4)。しかし1882年のウィーンは彼が大活躍した時で、34局の長丁場が終わった時にはシュタイニッツと首位を分け合っていた。シュタイニッツの出だしは非常に悪かった。そして大会の折り返し時にはやっと11位につけていた。しかし彼はツーカートルト戦とチゴーリン戦での惨敗にもめげずに粘り強さを発揮し最後には首位に追いついた。ビナベルとの優勝決定2番勝負の1局目にも負けたが2局目に勝ち優勝を分け合った。

 次にシュタイニッツは翌年ロンドンで開催された大会に出たがツーカートルトに3点も離されての2位だった。10年以上前に若いツーカートルトはシュタイニッツにこっぴどく負かされていたが、この大会の結果によってシュタイニッツとの番勝負の候補に躍り出た。二人の間で長くしだいにとげとげしくなる交渉が始まった。交渉のほとんどはどちらを選手権者としどちらを挑戦者とするのかということに集中していた。どちらも母国語はドイツ語だったが気楽にほとんど論争のための英文を書くことを学んでいた。それぞれ英国と米国のいろいろな新聞に多くの手紙を書き送り相手が決定的な対決をどのように避けているかを説明していた。

(この章続く)

2009年09月15日

チェス世界選手権争奪史(30)

第2章 ビルヘルム・シュタイニッツ(続き)

 1883年シュタイニッツは米国を長期間旅行した。チェス愛好者たちから熱狂的に歓迎されたことが契機となってイングランドとロンドン言論界の敵たちからの「文章のやじ」を見捨てて米国に永住した。1855年には「国際チェス雑誌」を創刊し、同じ年の終わり頃にはついに世界選手権戦の条件についてツーカートルトと合意に達した。

 ヨハネス・ヘルマン・ツーカートルトは1842年9月7日にポーランドのルブリンでポーランド人の母とドイツ人の父との間に生まれた。13歳の時に一家はブレスラウに引っ越し、そこで彼は何年か後に大学生だった時にアドルフ・アンデルセンのチェスの門下生になった。すぐにチェスに熱中するようになったが学業を止めることはなかった。1865年にはブレスラウ大学から医学の学位を授与された。

 ツーカートルトの業績の一覧を眺めるだけでも19世紀の最も驚異的な人間の一人であるという評価がうなづける。12ヶ国語に通じていた。神学、刑務所改革、音楽などの多彩な主題の執筆者。当時のホイストの名人の一人。フェンシングと射撃の達人。それから兵士にもなった。プロシア軍で3度の戦争に加わり9個もの勇猛勲章を授与された。本書の冒頭の段落に記述されているように1886年1月のその日に、全人生をチェスに捧げてきたシュタイニッツが世界選手権を懸けて対局していたのはこのルネッサンス的万能人間だった。

 番勝負の勝者は引き分けを数えずに最初に10勝をあげた者であることが決められていた。対局は米国の3都市で行なわれることになっていた。ニューヨークから始まりどちらかが3勝を挙げたところでセントルイスに移り最後はニューオーリンズで行なわれることになっていた。番勝負が行なわれている時点でシュタイニッツは50歳、ツーカートルトは44歳だった。

(この章続く)

2009年09月16日

チェス世界選手権争奪史(31)


第2章 ビルヘルム・シュタイニッツ(続き)

 初戦で白番のツーカートルトはクイーン翼ギャンビットを用いシュタイニッツは拒否戦法で応じた。1.d4 d5 2.c4 c6 3.e3 Bf5 4.Nc3 e6 5.Nf3 Nd7 6.a3 Bd6
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7.c5?(ツーカートルトは第3局と第19局でもこの初歩的な大局観の誤りを犯しそのたびに敗勢になった。実際には第3局では黒が緩手を連発して形勢を損じ白が勝ったが他の2局は負けた。白が中原で争点をゆるめてしまうと黒は ...e5 または ...b6 またはその両方で逆襲することができる。)7...Bc7 8.b4 e5! 9.Be2 Ngf6 10.Bb2 e4 11.Nd2 h5
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12.h3 Nf8 13.a4 Ng6 14.b5 Nh4 15.g3 Ng2+ 16.Kf1 Nxe3+
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17.fxe3 Bxg3 18.Kg2 Bc7 19.Qg1 Rh6 20.Kf1 Rg6 21.Qf2 Qd7
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22.bxc6 bxc6 23.Rg1 Bxh3+ 24.Ke1 Ng4 25.Bxg4 Bxg4 26.Ne2 Qe7
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27.Nf4 Rh6 28.Bc3 g5 29.Ne2 Rf6 30.Qg2 Rf3 31.Nf1 Rb8
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32.Kd2 f5 33.a5 f4 34.Rh1 Qf7 35.Re1 fxe3+ 36.Nxe3 Rf2
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37.Qxf2 Qxf2 38.Nxg4 Bf4+ 39.Kc2 hxg4 40.Bd2 e3 41.Bc1 Qg2
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42.Kc3 Kd7 43.Rh7+ Ke6 44.Rh6+ Kf5 45.Bxe3 Bxe3 46.Rf1+ Bf4 白投了
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(この章続く)

2009年09月17日

チェス世界選手権争奪史(32)

第2章 ビルヘルム・シュタイニッツ(続き)

 ツーカートルトはこれにひるまずニューヨークでの次の試合から3連勝しセントルイスでも4連勝目をあげた。シュタイニッツの指し方は結果を別にしても明らかに不安定だった。第3局で戦略的に勝っていた試合をふいにしただけでなく第4局ではとんでもない戦術上のポカを犯した。
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この局面でシュタイニッツ(白番)は黒のdポーンが釘付けになっていると思っていて 37.Nxc4 と取った。そして 37...dxc4 と取られて初めて 38.Qxb7 と取ると最下段で頓死させられることに気づいた。実戦は 38.Rxd8 Nxd8 39.Qe2 Ne6
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と進んだところで白が投了した。

(この章続く)

2009年09月18日

チェス世界選手権争奪史(33)

第2章 ビルヘルム・シュタイニッツ(続き)

 第5局でシュタイニッツは布局で不利に陥り一度も挽回できなかった。

クイーン翼ギャンビット拒否
白 ツーカートルト
黒 シュタイニッツ

1.d4 d5 2.c4 c6 3.Nc3 Nf6 4.e3 Bf5?
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5.cxd5 cxd5 6.Qb3 Bc8(最善)7.Nf3 Nc6 8.Ne5 e6
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9.Bb5 Qc7 10.Bd2 Bd6 11.f4 O-O 12.Rc1 Bxe5
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13.fxe5 Ne8 14.O-O f6 15.Bd3 Rf7 16.Qc2 f5
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17.Ne2 Bd7 18.Rf2 Rc8 19.Bc3 Qb6 20.Qd2 Ne7
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21.Rcf1 Bb5 22.Bb1 Qa6 23.g4 g6 24.h3 Rc7
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25.Re1 Ng7 26.Nf4 Nc8 27.gxf5 gxf5 28.Rg2 Kh8
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29.Kh2 Qc6 30.Reg1 Ne7 31.Qf2 Qe8 32.Rxg7 黒投了
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(この章続く)

2009年09月19日

チェス世界選手権争奪史(34)

第2章 ビルヘルム・シュタイニッツ(続き)

 この試合の後対局地はセントルイスに移動し2月3日から試合が再開された。今やシュタイニッツは20年前にアンデルセンと対局していた時とほとんど似た状況に立たされていた。アンデルセンとの番勝負では初めの方の地すべり的連敗を止めた後一進一退の戦いになった。しかし今回はそれとは違って世界選手権戦の歴史の中でも恐らく最も劇的な運命の逆転をまのあたりにした。第6局はシュタイニッツがルイロペスで長い捌きの末に勝った。第7局ではクイーン翼ギャンビットのシュタイニッツ戦法として今なお知られている戦法に後に取り入れられた構想がマスターの試合に登場した。

クイーン翼ギャンビット
白 ツーカートルト
黒 シュタイニッツ

1.d4 d5 2.c4 e6 3.Nc3 Nf6 4.e3

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 第15局、第17局それに第19局ではツーカートルトがここで 4.Bg5 と指した。この手は後に米国選手のハリー・ピルズベリーによって流行戦法になった。

4...c5 5.Nf3 Nc6

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 これがいわゆるタラシュ防御の標準型である。もちろんその名前で知られるようになったのはずっと何年も後のことである。今日クラブの選手でもクイーンポーン布局について知っていることのほとんどは1886年では未知の局面だった。

6.a3

 この手は 6.cxd5 Nxd5 で準タラシュ防御という風変わりな名前を付けられ今日までよく研究された戦法を避けたい人たちによって時おり指されている(これに対して 6...exd5 と取るのは純正タラシュ防御である)。6.a3 の後本譜のようにクイーン翼ギャンビット受諾にもなるし 6...Be7 7.dxc5 で先後逆のクイーン翼ギャンビット受諾にもなる。

6...dxc4 7.Bxc4 cxd4

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 ここがシュタイニッツの当時としては新構想の局面である。白のdポーンを孤立させてせき止め、d5の地点に駒を居座らせ(できればナイト)、後にこのポーンを取ってしまう意図である。これ以降の100年近くの研究と実戦でもこの作戦が正当かどうか明らかにすることができなかった。孤立dポーンを持っている側は明らかな陣形上の弱点の代わりにそれらを埋め合わせるいくつかの見返りを得ている。それらは駒の動き易さ、ナイトのためのe5の橋頭堡、それに孤立ポーンの前進を中心としたいろいろな戦術の手段である。1930年代に後に世界チャンピオンになるミハイル・ボトビニクはそのような変化で白の可能性を実証しいくつかの傑作を残した。また1969年のボリス・スパスキー対チグラン・ペトロシアンの世界選手権戦ではスパスキーが黒にも孤立dポーンに動的な手段があることを示した。

8.exd4 Be7 9.O-O O-O

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 この局面は現代ではニムゾインディアン防御の手順からも生じることがある。白はここですぐに 10.Qd3! と指すべきで、その後 Bg5、Rad1、Rfe1 と進めてやや優勢である。g5のビショップは眼目のd5突きとからめて戦術的手段を秘めている。これに対してe3ではe列の邪魔になるだけである。

10.Be3? Bd7 11.Qd3

 ここでの白の最善手は 11.d5 で、孤立ポーンを解消すれば互角の局面になる。

11...Rc8 12.Rac1

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 白のルークは前述のように本来d1とe1に配置すべきである。本局におけるツーカートルトの指し手を評価する際には、頼りにすべき前例の知識がないまま彼が非常に難しい戦術上の問題に直面していたことを思い起こすことが大切である。これに対して現代のマスターたちなら誰でもほとんど当然のことのように駒を正しい地点に配置するだろう。

12...Qa5 13.Ba2 Rfd8 14.Rfe1 Be8 15.Bb1 g6

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 白には攻撃手段がない。そこで黒は駒を白の孤立ポーンめがけて進ませることができる。黒は戦略的に既に勝負に勝ったと言ってもほとんど誇張ではない。

16.Qe2 Bf8 17.Red1 Bg7 18.Ba2 Ne7

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19.Qd2

 これはみえみえの 20.Nd5 だけが狙いの取るに足らない手である。19.Rd2 でd列にルークを重ねるか 19.Bg5 として 19...Nf5 に 20.d5! を用意する方が良かった。

19...Qa6! 20.Bg5 Nf5

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21.g4?

 ここで 21.d5 はもちろん白クイーンの不運な位置を利用して 21...Bc6 で応じられる。しかしエマーヌエール・ラスカー推奨のある意図-当ててみよ-を持った 21.Qe1 が本譜のかなり注意力散漫な手よりも良かった。

21...Nxd4 22.Nxd4 e5

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23.Nd5

 23.Qe2 は 23...exd4 24.Qxa6 bxa6 25.Nd5 Rxc1 26.Rxc1 Rxd5 となって駒の取り合いから黒に強力なパスポーンが残るので本譜の方がまだましである。

23...Rxc1 24.Qxc1 exd4 25.Rxd4 Nxd5

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26.Rxd5

 26.Bxd8 は 26...Bxd4 27.Bxd5 Qe2 で黒が早く勝つ。

26...Rxd5 27.Bxd5 Qe2 28.h3

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28...h6

 本筋ではない 28...Bxb2 もだいぶ研究の対象にされた。以下は 29.Qc8 Qd1+ 30.Kh2 Be5+ 31.f4 Qd2+ 32.Kg3!-シュタイニッツ指摘の手-となって黒が勝てない。

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29.Bc4?

 ここは 29.Be3 が正着で(29.Bxh6? は 29...Bxh6 30.Qxh6 Qd1+ から 31...Qxd5 でビショップを取られて明らかに悪い)以下 29...Bxb2 30.Qb1 Kh7(31.Qxg6+ の狙いを防いだ)31.Bxb7 Bb5 32.Be4 となれば白の非常に困難な局面だがまだ戦う余地があった。本譜の手では負けが決まった。

29...Qf3 30.Qe3 Qd1+ 31.Kh2 Bc6 32.Be7 Be5+!

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33.f4 Bxf4+ 34.Qxf4 Qh1+ 35.Kg3 Qg1+ 白投了

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(この章続く)

2009年09月20日

チェス世界選手権争奪史(35)

第2章 ビルヘルム・シュタイニッツ(続き)

 これで対戦成績がツーカートルトの4勝3敗になった。両対局者は休息をとりたかったかのように第8局でははやばやと引き分けにした。第9局で白番のツーカートルトはまたクイーン翼ギャンビットを指しキング翼攻撃で指し過ぎシュタイニッツが対戦成績を互角に戻した。この後舞台はニューオーリンズに移り2月26日に試合が再開された。

 第10局はシュタイニッツの白番で21手で引き分けになった。この後シュタイニッツは少なくともこの相手に対しては受けが最も有望な攻撃策であると判断したようだった。そして第11局では16手目で次のような堅固な陣形を築いた。

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 ツーカートルトは痺れを切らして 17.Bxh7+ Kxh7 18.Qh5+ Kg8 19.Rh3 -19.c4 なら駒を取り返せるがほとんどすることがない局面になる- と攻め立てたが 19...f6 と指されて敗勢になった。チェックが繰り返された後-なぜツーカートルトが引き分けを申し立てなかったのかは不可解である-
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シュタイニッツは 31...Ke7! と指し次のように簡単に勝った。32.Re3+ Kf8 33.Qh8+ Bg8 34.Bh6 Re7!
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これでシュタイニッツが対戦成績を5-4とリードした。

(この章続く)

2009年09月21日

チェス世界選手権争奪史(36)

第2章 ビルヘルム・シュタイニッツ(続き)

 シュタイニッツは第12局も勝った。第13局はツーカートルトが86手でお返しに勝った。しかしこの頃までに彼は精神的に疲れ果てて崩壊寸前だった。第14局と第15局はなんとか引き分けに持ち込んだがこの後急に精神的にまいって結局12½-7½で敗北した。最終局で勝利を確信する白番のシュタイニッツは例の気違いじみたギャンビットに打って出た。勝負の結果は気弱になり非常に衰弱したツーカートルトが追い込まれた状態を雄弁に物語っていた。

シュタイニッツギャンビット
白 シュタイニッツ
黒 ツーカートルト

1.e4 e5 2.Nc3 Nc6 3.f4 exf4 4.d4 d5 5.exd5 Qh4+
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6.Ke2 Qe7+ 7.Kf2 Qh4+ 8.g3 fxg3+ 9.Kg2 Nxd4
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10.hxg3 Qg4 11.Qe1+ Be7 12.Bd3 Nf5 13.Nf3 Bd7 14.Bf4 f6
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15.Ne4 Ngh6?? 16.Bxh6 Nxh6 17.Rxh6 gxh6 18.Nxf6+ Kf7 19.Nxg4 黒投了
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 シュタイニッツはこれで番勝負の規約により世界選手権者になった。しかしすみやかにその資格を主張しなければ自称に近いタイトルを誰からも承認されることはほとんど期待できなかった。1888年1月に彼はハバナに旅行した。それは地元のチェス愛好者からその地で相手を指名して番勝負を戦うよう招かれたためだった。シュタイニッツは受諾し挑戦者にはミハイル・チゴーリンを選んだ。

(この章続く)

2009年09月22日

チェス世界選手権争奪史(37)

第2章 ビルヘルム・シュタイニッツ(続き)

 ミハイル・イワノビッチ・チゴーリンはがっしりしたロシア人で、濃く黒いあごひげをたくわえていた。当時38歳でその時まで国際的な舞台ではほとんど目立った実績がなかった。ただ、「旧派」の選手としての評価は得ていた。彼の棋風は次のようなものだった。

 『・・・敵キングに対する攻撃にかけてはめざましいものがある。恐らく美しいという簡明な言葉によって描写するのが最善だろう。彼はたぶんキング翼攻撃の最高のマスターであり、面白くないチェスを指すことはめったにない。彼の主要なエネルギーは序盤でなく中盤戦に注ぎ込まれる。序盤は時々むとんじゃくに指すことがある。』

 この記述は1895年ヘースティングズ大会の記録誌から引用したが、その本の編集長はチゴーリンの同時代の者の間でよくささやかれていた意見を表している。実際はチゴーリンは優れた万能選手で序盤も労を惜しまず研究していた。今日でもよく指される多くの序盤戦法は彼の努力によるところが大きい。しかし彼はギャンビット、それも多くのギャンビットの戦型から生じるキング翼攻撃が極度に好きだった。そして引き分けが嫌いで、少なくとも棋歴の後半ではほとんど病的なまでに嫌っていた。シュタイニッツが対戦相手にチゴーリンを選んだのは恐らく彼のギャンビット好きのためだった。それはチゴーリンの一番好きなギャンビットであるエバンズギャンビットに対してひねくれた挑発的な防御を試すことができるからだった。

(この章続く)

2009年09月23日

チェス世界選手権争奪史(38)

第2章 ビルヘルム・シュタイニッツ(続き)

 それゆえに番勝負は20試合で争われることになっった。当時ほとんどの番勝負が引き分けは数えず勝数で勝者が決められていたことを考えれば変わった取り決めだった。ともかく番勝負は1889年1月20日から始まった。チゴーリンはエバンズギャンビットでは互角の成績をあげた。シュタイニッツはチゴーリンにエバンズギャンビットを7回指させ、ギャンビットされたポーンを維持するために自殺行為にも似た譲歩をし、驚異的な受けの技術でいくつかの絶望的な局面を救うことができた。しかしチゴーリンは他の戦型では惨敗し10½-6½で番勝負に負けた。シュタイニッツの技量の相手と戦った経験がチゴーリンに良い効果を与えたことはその年の後半に開催されたニューヨークでの強豪の大会で同点2位になったことに表れた。そしてタイトル再挑戦の機会を得た。

 しかしチゴーリンとの再戦の前にシュタイニッツはニューヨークでほとんど記憶されていないガンズバーグとの番勝負に臨んだ。それは1890年12月9日に始まり1891年1月まで続いた。ガンズバーグは生まれはハンガリー人でイングランドに移住していた。1889年ニューヨークでの大会では3位に入った。その後のチゴーリンとの番勝負では9-9で引き分けた。彼はあまりぱっとしないが非常に堅実な選手だった。英国言論界の敵による全く反対の見解にもかかわらず当時の誰とも同等の世界選手権獲得の機会にふさわしかった。番勝負はシュタイニッツの勝ちに終わったが6勝4敗9分の僅差だった。

(この章続く)

2009年09月24日

チェス世界選手権争奪史(39)

第2章 ビルヘルム・シュタイニッツ(続き)

 1892年1月にシュタイニッツとチゴーリンはハバナに戻り前回と同じ条件で番勝負を始めた。新年に行なわれた第1局はまたしてもエバンズギャンビットだったが今度はチゴーリンが縦横無尽に指し回した。

エバンズギャンビット
白 チゴーリン
黒 シュタイニッツ

1.e4 e5 2.Nf3 Nc6 3.Bc4 Bc5 4.b4 Bxb4 5.c3 Ba5 6.O-O d6 7.d4
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7...Bg4(シュタイニッツは今回の番勝負で6回この手を指した。唯一手を変えたのは第7局で 7...Bd7 を試した。7...Bb6 からのラスカー防御がエバンズギャンビットを指す楽しみをほとんど奪ったのはもちろんしばらくのちのことである。)8.Bb5(第15局でチゴーリンはここで 8.Qa4 と指した。そして 8...exd4 9.cxd4 a6 10.Bd5 Bb6 11.Bxc6+ bxc6 12.Qxc6+ Bd7 13.Qc3 Ne7 でギャンビットしたポーンを取り戻したが優勢にはなれなかった。)8...exd4 9.cxd4 Bd7 10.Bb2
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10...Nce7(あまりにもシュタイニッツ流にこだわったと反省してシュタイニッツは以降の試合で 10...Nf6 に手を変えた。しかし 10...Nce7 は悪手というより奇手というべき手で、この手自体が防御の失敗の原因ではない。)11.Bxd7+ Qxd7 12.Na3 Nh6 13.Nc4 Bb6 14.a4 c6 15.e5 +-
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15...d5 16.Nd6+ Kf8 17.Ba3 Kg8 18.Rb1 Nhf5 19.Nxf7!
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19...Kxf7 20.e6+ Kxe6 21.Ne5 Qc8 22.Re1 Kf6 23.Qh5
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23...g6 24.Bxe7+ Kxe7 25.Nxg6+ Kf6 26.Nxh8
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26...Bxd4 27.Rb3 Qd7 28.Rf3 Rxh8 29.g4 Rg8 30.Qh6+ Rg6 31.Rxf5+ 黒投了
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(31...Qxf5 32.Qf8+)

(この章続く)

2009年09月25日

チェス世界選手権争奪史(40)

第2章 ビルヘルム・シュタイニッツ(続き)

 第8局まで終わってチゴーリンのリードは1点だった。第10局に勝って2点差にした。第12局まで終わってなお2点差だった。その直後からシュタイニッツが2連勝して互角にした。それから交互に勝ち負けが続いて互角のまま推移した。全20局が終了して両者とも8勝ずつあげ引き分けは4局だった。しかし緊張にへこたれていなかったのはシュタイニッツの方だった。番勝負中最高の会心の一局となった第18局では衰えることのない闘志を見せつけた。

オランダ防御
白 シュタイニッツ
黒 チゴーリン

1.Nf3 f5 2.d4 e6 3.c4 Nf6 4.Nc3 Be7 5.d5!?
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5...exd5 6.cxd5 O-O 7.g3 d6 8.Bg2 Nbd7 9.O-O Ne5 10.Nd4 Ng6
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11.Qc2 Ne8 12.f4 Bf6 13.Be3 Bd7 14.Bf2 Ne7 15.Rae1
YFMF040C.JPG
15...Bxd4 16.Bxd4 c5 17.dxc6e.p. Bxc6 18.e4 Qd7 19.Nd5
YFMF040D.JPG
19...Nxd5 20.exd5 Bb5 21.Rf3 Nc7 22.Rc3 Na6 23.Rce3 Rfe8 24.Re6 Nc7 25.Qxf5!
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25...Nxe6 26.dxe6 Qe7 27.Qxb5 Rac8 28.Qxb7 Rc7 29.Qe4 Rec8 30.Bc3 Rc4
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31.Qd3 a5 32.Rd1 Qa7+ 33.Kh1 R4c7 34.Qxd6 h5 35.Be4 Re8
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36.Qe5 Rc5 37.Rd5 Rxd5 38.Bxd5 Re7 39.Qxg7+ Rxg7 40.e7+ Kh7 41.Be4+ 黒投了
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(この章続く)

2009年09月26日

チェス世界選手権争奪史(41)

第2章 ビルヘルム・シュタイニッツ(続き)

 現代のフットボールのプロ選手たちは引き分けは妹にキスするようなもの[訳注 嬉しくもなんともないこと]だと言う。世界のチェス選手に対して自分の優越を主張するために人生のほとんどを費やしてきたシュタイニッツにとっては確かにチゴーリンが同格であることを認める気はなかった。とにかく決着のつかないことを嫌うチゴーリンにとっては引き分けという結果で得るものはほとんどなかった。そこでどちらかが10勝するまで試合を続けることが合意された。第21局は引き分けだったが続く2局をシュタイニッツが連勝し10勝8敗5分で番勝負に勝った。

 シュタイニッツはまたしてもチゴーリンを破った。しかし彼が真の敵とみなしていたに違いない「ギャンビット指法の真髄」に対してはこの2度目の対決で惨めな結果に終わった。チゴーリンはエバンズギャンビットで4勝1敗3分と圧倒しただけでなく、2ナイト防御では黒番の4局で3勝もあげた。2ナイト防御も戦力を犠牲にする布局でシュタイニッツはいくつかの独自の構想を試していた。シュタイニッツが番勝負に勝ったのはルイロペスの白で3勝0敗1分、クイーンポーン布局で3戦3勝という結果をあげたからだった。

(この章続く)

2009年09月27日

チェス世界選手権争奪史(42)

第2章 ビルヘルム・シュタイニッツ(続き)

 チゴーリンとの接戦の番勝負では挑戦者の棋力の充実とシュタイニッツの緩やかな衰えが露呈された。そこでシュタイニッツはジャーナリズムと指導対局によって生活を支えながら『現代チェス教本』第2巻の著作に乗り出した。1892年には56歳になっていて通風によって足が不自由になっていたが同時代の者に畏敬の念を起こさせる猛烈なエネルギーと信念をまだ発露していた。1893年の終わり頃にモントリオールで同時指導対局を行なった時のことである。対戦者の一人に16歳のフランク・J・マーシャルがいた。彼はその時のシュタイニッツの様子を次のように印象的に生き生きと書き残している。

 『シュタイニッツが私の前に現れた時彼をまざまざと見ることができた。彼は背が低くずんぐりしてひげを生やしていて顔が大きかった。彼が対局机のまわりを歩き回っている時にびっこを引いていることに気づいた。近眼の彼はそれぞれの盤のところで体をかがめ駒をじっと見ていた。私の盤のところに来るたびに私を励ますような笑顔を見せた。史上最高のチェス選手の一人である彼は勝利へのあくなき執念の持ち主で同時指導対局でも引き分けを嫌った。[フランク・マーシャル著「私のチェス50年」]』

(この章続く)

2009年09月28日

チェス世界選手権争奪史(43)

第2章 ビルヘルム・シュタイニッツ(続き)

 シュタイニッツがチゴーリンとガンズバーグとの番勝負に明け暮れている間にチェス界には二人の新しい名前が聞かれ始めていた。それはジークベルト・タラシュとエマーヌエル・ラスカーである。どちらもドイツ人で、タラシュは1862年生まれでラスカーより6歳年上だった。そして1884年にはもう国内マスターの称号を得ていた。1889年には故郷のブレスラウで初めての国際大会での優勝を成し遂げていた。その大会にはラスカーも参加していたが、下の方の部門でマスターの称号を得た。それからタラシュには優勝が相次いだ。1890年のマンチェスター、1892年のドレスデン、そして1894年のライプチヒ。1894年までには明らかに世界の最強選手になっていた。

 これに対してラスカーは1894年までにいくつかの比較的小さな栄誉を得ることができただけだった。1892年にタラシュに番勝負を挑んだが、挑戦の労をとったイギリス人ジャーナリストのサミュエル・ホファーはタラシュからの回答が非常に思わしくなかったのでそれをそのままラスカーに伝えることをしなかった。それにもかかわらず1894年3月にシュタイニッツが世界選手権への新しい挑戦者をむかえた時相対していたのはタラシュではなくラスカーだった。

(この章続く)

2009年09月29日

チェス世界選手権争奪史(44)

第2章 ビルヘルム・シュタイニッツ(続き)

 このような状態になったわけは極めて単純で、たった一語、「お金」、で言い表してもよい。ラスカーはシュタイニッツへの挑戦のための支援をどうにか見つけていた。彼は1893年に米国を訪れ当地でいろいろな人たちに強い印象を与えて、ニューヨーク、フィラデルフィアそれにモントリオールで番勝負を行なうための賞金3千ドルを最終的にかき集めた。

 それによって1894年3月15日からニューヨークで試合が始まった。26歳のラスカーはシュタイニッツより32歳も若く(世界選手権戦の歴史で最も離れた年齢差)シュタイニッツは見るからに体調が悪かったにもかかわらず-通風のせいで歩行が困難で松葉杖をついて歩かなければならなくなっていた-チャンピオンが防衛するだろうというのがもっぱらの衆評だった。持ち時間は15手につき1時間で、最初に10勝をあげた者が勝利者と決められた。

(この章続く)

2009年09月30日

チェス世界選手権争奪史(45)

第2章 ビルヘルム・シュタイニッツ(続き)

 最初の3局はいずれもルイロペスだった。第1局はラスカーの白番で60手で勝った。第2局はシュタイニッツがベルリン防御を42手で破った。第3局はまたもやシュタイニッツが自分の名前が冠せられるようになった防御を繰り出した。

白 ラスカー
黒 シュタイニッツ

1.e4 e5 2.Nf3 Nc6 3.Bb5 d6
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(この手がシュタイニッツ防御の特徴である。もっとも 3...Nf6 として白が 4.O-O でキングの所在を明らかにしてから 4...d6 とする方が融通性がある。この理由は黒の5手目の解説を参照。シュタイニッツ流の狭小な防御陣は1920年代半ばまではかなり人気があった。1921年のラスカー対カパブランカ戦にもその例がある。しかしその後人気がなくなり、世界選手権戦関連では1965年の挑戦者決定戦の準決勝でベント・ラルセンがミハイル・タリに対して用いるまで再び現れることはなかった。その試合は次のように進んだ。1.e4 e5 2.Nf3 Nc6 3.Bb5 Nf6 4.O-O d6 5.d4 Bd7 6.Nc3 exd4 7.Nxd4 Be7 8.b3 Nxd4 9.Qxd4 Bxb5 10.Nxb5 Nd7 11.Ba3 a6 12.Nc3 +/-)4.d4 Bd7 5.Nc3
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5...Nge7(5...Nf6 に対しては白に 6.Bg5 Be7 7.Qd3! から [8.]O-O-O という非常に強力な手順がある。しかし本譜の手の方が良いとも言えない。)6.Bc4(狙いは 7.Ng5 である。第7局ではラスカーは 6.Be3 と指した。)6...exd4 7.Nxd4 Nxd4 8.Qxd4 Nc6 9.Qe3 Ne5(9...Be6!)10.Bb3 Be6
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11.f4 Nc4? 12.Qg3 Nb6 13.Be3 c6 14.f5 Bxb3 15.axb3 Nd7 16.Bf4 Qc7
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17.b4 f6 18.Ne2 Ne5 19.Nd4 Qb6 20.c3 O-O-O 21.Ne6 Rd7 22.Be3 Qb5!
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(これは駒を犠牲にしての巧妙な反撃の始まりで、もう少しでうまくいくところだった。)23.Rxa7 b6 24.Ra8+ Kb7 25.Rxf8 Rxf8 26.Nxf8 Qd3!
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27.Rf1(ジェームズ・メーソンとW・H・K・ポロックの研究によって次のように白がルークを取り永久チェックをかわすことができることが示された。27.Nxd7 Qb1+ 28.Kd2! Qxb2+ 29.Kd1 Qb3+ 30.Ke2 Qc4+ 31.Kf2 Qa2+ 32.Kf1 Qc4+ 33.Ke1 Qxc3+ 34.Bd2 Qa1+ 35.Ke2 +-)
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27...Qc2 28.Bd2 Re7(シュタイニッツによると黒は 28...Nc4 と指すべきだった。以下は 29.Qf4 Rd8 30.Ne6 Ra8 31.Ke2 Ra2 で「強力な攻撃力がある。」本譜は絶望的である。)29.Ne6 Qxe4+ 30.Qe3 Qxg2 31.b3 Re8 32.Qe2 Qh3
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33.Kd1 Ra8 34.Rf2 Ra2 35.b5 c5 36.Nxg7 d5 37.Kc1 Qd3
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38.Qxd3 Nxd3+ 39.Kb1 Rb2+ 40.Ka1 Rxb3 41.Rf3 c4 42.Ne8 Nb4!
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43.Rg3 Ra3+ 44.Kb1 Rb3+ 45.Kc1 Nd3+ 46.Rxd3! cxd3 47.Nxf6 Rxb5
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48.Ne8 Kc6 49.f6 d4 50.Ng7 dxc3 51.Bxc3 Rg5?(51...Kd7!)52.f7 黒投了
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(この章続く)

2009年10月01日

チェス世界選手権争奪史(46)

第2章 ビルヘルム・シュタイニッツ(続き)

 シュタイニッツは第4局を勝ってすぐに巻き返した。第5局と第6局は引き分けに終わった。第7局で白番のラスカーは序盤でしくじり2ポーン損になったが激しい反撃に出て22手目のあとで次の局面に至った。
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ここでラスカーは 23.g6! と指しシュタイニッツが 23...d5?(23...hxg6 24.h5 g5 25.h6 gxh6 26.Rxh6 Re8 で白には適当な手がない。)と応じた時攻撃のきっかけをつかんだ。その後シュタイニッツが緩手を連発して自滅した。24.gxh7+ Kxh7 25.Bd3+ Kg8 26.h5 Re8 27.h6 g6 28.h7+ Kg7
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29.Kb1 Qe5 30.a3 c5 31.Qf2 c4 32.Qh4 f6 33.Bf5!
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33...Kf7 34.Rhg1 gxf5 35.Qh5+ Ke7 36.Rg8 Kd6 37.Rxf5 Qe6 38.Rxe8 Qxe8 39.Rxf6+
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39...Kc5? 40.Qh6 Re7 41.Qh2 Qd7? 42.Qg1+ d4 43.Qg5+ Qd5 44.Rf5 Qxf5 45.Qxf5+ Kd6 46.Qf6+ 黒投了
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ラスカーは第8局も勝ち、4-2の成績でフィラデルフィアに移動した。

(この章続く)

2009年10月02日

チェス世界選手権争奪史(47)

第2章 ビルヘルム・シュタイニッツ(続き)

 第9局はフランクリン・チェスクラブで4月14日に行なわれたがラスカーの会心局となった。

ルイロペス
白 ラスカー
黒 シュタイニッツ

1.e4 e5 2.Nf3 Nc6 3.Bb5 d6 4.Nc3

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 4.d4 で敵のeポーンに圧力をかけていく方が明らかにきつい手である。本譜の手に対しては黒がいくつかの適切な手で応じることができる。

4...a6

 4...Nf6 や 4...Bd7 は 5.d4 でもっと普通の手順に戻る。4...Bg4 はこれも互角への近道である。例えば1932-33年ヘースティングズでのタイラー対スルタン・ハーン戦では 5.d4 exd4 6.Qxd4 a6 7.Bxc6+ bxc6 8.Qc4 Qd7 = と進んだ。

5.Bc4

 5.Bxc6+ は 5...bxc6 6.d4 f6 = となって、白のc3のナイトが自分のcポーンをふさぎクイーン翼での指し手を狭めてしまっている。

5...Be6 6.Bxe6 fxe6 7.d4 exd4 8.Nxd4 Nxd4 9.Qxd4

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9...Ne7 10.Bg5 Nc6! 11.Bxd8 Nxd4 12.O-O-O

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12...Nb5?

 単に 12...Rxd8 13.Rxd4 Be7 と指していれば互角の局面だった。本譜の手では黒にいくつかの弱点と骨の折れる受けが残される。

13.Nxb5 axb5 14.Bxc7

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14...Rxa2

 14...Ra6(15...Kd7 の狙い)なら 15.e5 d5 16.a3 Kd7 となってaポーンの代わりにeポーンを取ることになるがそれでも黒にとって非常に難しい形勢である。

15.Bb6 Be7 16.c3 Kf7 17.Kc2 Rha8 18.Kb3 R2a4

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19.f3 R8a6 20.Bd4 g6 21.Rd3 Ke8 22.Rhd1

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22...e5

 この手は明らかに大きな譲歩だが止むを得なかった。もし(フレッド・ラインフェルドとルーベン・ファインの著書の『ラスカー博士のチェス棋歴』中の分析による)Ⅰ22...Kd7 なら 23.Bc5 Rc6 24.Bxd6 Rxd6 25.Rxd6+ Bxd6 26.e5 Ra6 27.f4 Kc7 28.exd6+ Rxd6 29.Rd4! +/-
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となり、ルークを交換すると黒がすぐ負けてしまう。
 Ⅱ22...Rc6 なら 23.Bf2 Kd7 24.Bg3 Kc7 25.Rd4 Rxd4 26.Rxd4 Rc5 27.Kb4 +/-
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となる。

23.Be3 Kd7 24.Bc5! Ra1 25.R1d2 Ke6

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26.Ba3 g5 27.Rd5 Rb6 28.Kb4 g4

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29.Ka5

 ラスカーは後に 29.fxg4 Re1 30.Ka5 Bd8 31.Rxb5 Ra6+ 32.Kb4 Rxe4+ 33.Kb3 の方が良かったと言ったが実戦の手の方が簡明である。

29...Ra6+ 30.Kxb5 h5 31.Rd1 Rxd1 32.Rxd1 gxf3 33.gxf3 Ra8

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34.Kb6 Rg8 35.Kxb7 Rg2 36.h4 Rh2 37.Kc6 Bxh4 38.Rxd6+ Kf7 39.Kd5

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39...Bf6

 39...Rd2+ は 40.Kxe5! Bg3+ 41.f4 Rxd6 42.Bxd6 h4 43.Bc5 h3 44.Bg1 で白の勝ちになる。

40.Rd7+ Kg6 41.Ke6 h4 42.Rd1 h3 43.Rg1+ Rg2 44.Rxg2+ hxg2

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45.Bc5 Bd8 46.b4 Kg5 47.Kd7 Bf6 48.b5 Kf4 49.b6 黒投了

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(この章続く)

2009年10月03日

チェス世界選手権争奪史(48)

第2章 ビルヘルム・シュタイニッツ(続き)

 第10局と第11局もラスカーが勝って5月の初めにモントリオールのコスモポリタン・クラブで番勝負が再開された時にはラスカーの7-2になっていた。当然のことながらラスカーも含めて誰もがもうまもなく勝負がつくと予想していた。しかしシュタイニッツは周りが想像したに違いない全くの強情から、勝利のために必死で戦ってきたタイトルの防衛に最後の力を振り絞った。第12局は引き分けだったが第13局はこの古豪の長い棋歴の中でも最高傑作の一局となった。

ルイロペス
白 ラスカー
黒 シュタイニッツ

1.e4 e5 2.Nf3 Nc6 3.Bb5 a6(これは現代のほとんどの選手がほぼ反射的に指す手だがシュタイニッツはあまり好まなかった。彼は別の防御手段を創案していたので自分の頭脳の産物を愛用することを期待されていたのかもしれない。しかしこの番勝負の以前の試合ではシュタイニッツ防御は手痛い仕打ちを受けていた。)4.Bxc6(ラスカーが後年最も重要な試合のいくつかで勝利をあげたのはこの交換戦法だった。その中には1914年サンクトペテルブルクの大会でカパブランカを破った有名な試合もあった。最近ではボビー・フィッシャーがこの戦法でいくつかの貴重な勝利をあげているがいくらか違った作戦を用いている。次の解説を参照。)4...dxc6
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5.d4
(現代では 5.O-O が指されている。以下は 5...f6 -5...Bg4 もある- 6.d4 exd4 7.Nxd4 c5 8.Nb3 Qxd1 9.Rxd1 Bd6 10.Na5! +/= と進む。)5...exd4 6.Qxd4 Qxd4 7.Nxd4
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7...c5(前述のサンクトペテルブルクでの試合ではカパブランカが 7...Bd6 と手を変え以下 8.Nc3 Ne7 9.O-O O-O 10.f4 Re8 11.Nb3 f6 12.f5?! と進んだ。)8.Ne2 Bd7
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9.Nbc3(1908年タラシュとの番勝負の第1局でラスカーは 9.b3 と指した。しかし 9...Bc6 10.f3 Be7 11.Bb2 Bf6 12.Bxf6 Nxf6 13.Nd2 O-O-O 14.O-O-O Rd7 15.Nf4 Re8 16.Nc4 b6
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となってあるかないか程度の優勢だった。)9...O-O-O 10.Bf4 Bc6 11.O-O Nf6 12.f3 Be7 13.Ng3 g6
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14.Rfe1(14.Rfd1!)14...Nd7 15.Nd1 Nb6 16.Nf1 Rd7 17.Be3 Rhd8 -/=
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18.b3 c4! 19.Bxb6 cxb6 20.bxc4 Bb4! 21.c3 Bc5+ 22.Kh1 Rd3 23.Rc1
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23...a5(23...Ba3! 24.Nf2 Rd2 25.Nxd2 Rxd2 26.Nh3 Bxc1 27.Rxc1 f6 -/+)24.Nde3 f5 25.exf5(25.Nd5!)25...gxf5
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26.h3(26.Nxf5 Rxf3!! 27.N5e3 Rf2 または 27.Ne7+ Bxe7 28.gxf3 Bxf3+ 29.Kg1 Bc5+ 30.Ne3 Rd2 -/+)26...Rg8 27.Nd5 Bxd5 28.cxd5 Rxd5
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29.Rcd1?(29.g4!)29...Rxd1 30.Rxd1 f4!
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31.Kh2 Re8 32.a4 Kc7 33.h4 Kc6 34.c4 Bb4 35.Kh3 Re1
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36.Rxe1 Bxe1 37.Kg4 Kc5 38.Kxf4 Kxc4 39.Ke4 Bxh4 40.g3 Bd8
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41.Ne3+ Kb4 42.Kd3 Kxa4 43.Kc2 Kb5 44.f4 Kc5 45.f5 Kd6
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46.g4 b5 47.Nd1 Ke5 48.Nc3 b4 49.Na4 Kd4 50.Nb2 b5
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51.Kb3 Be7 52.g5 a4+ 53.Nxa4 bxa4+ 54.Kxa4 Ke5 55.Kb3 Kxf5 白投了
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(この章続く)

2009年10月04日

チェス世界選手権争奪史(49)

第2章 ビルヘルム・シュタイニッツ(続き)

 これで士気を鼓舞されたかのようにシュタイニッツは第14局も堂々と勝ち、チェスの歴史で最も劇的な巻き返しを成し遂げるかのように見えた。ここでスケジュールにより一週間の休みに入った。これは本来なら年長の選手にとって絶好の休養となるはずだった。しかしこの中断で恩恵を受けたのはラスカーの方だった。ラスカーは第15局を楽勝し対戦成績を8-4とリードした。第16局でシュタイニッツは布局と中盤戦の初めでしくじったがいつものように徹底抗戦し36手目の後で次の勝負どころの局面を迎えた。

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 ここでシュタイニッツは 37.Kg2? と指し 37...Rb2+ 38.Kg3 Rxb7 39.Bxb7 Ne2+ 40.Kf3 Nxc1 41.Kxe3 Nxa2
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となって結局負けた。しかし 37.Rc7+ Kf6 38.Be4 Ne2+! 39.Kg2 Nxf4+ 40.Kf3 e2 41.Rc1
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41...Nd5(41...Ke5? 42.Rb1!)42.Bxd5 exd5 43.Kxe2 Rxb7 44.Rc5 Rb2+ 45.Ke3 Rxa2 46.Rxd5
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と指していれば白が引き分けにできたはずだった。

 このような時に半点を逃がせば落胆も計り知れなかったに違いない。しかしそれでも巨匠はなおもあきらめず第17局に勝って盛り返した。しかしこれは彼の最後の勝ちどきとなった。1894年5月26日の第18局で52手でシュタイニッツが投了し世界選手権はエマーヌエル・ラスカーの手に渡った。(ツーカートルト戦での勝利から)9年間の君臨のあと次にまたタイトルが移動するのは27年後であった。

(この章終わり)

2009年10月05日

チェス世界選手権争奪史(50)

第3章 エマーヌエル・ラスカー

 新世界選手権者のエマーヌエル・ラスカーは1868年12月24日にブランデンブルクのベルリンヒェンという村で地元のユダヤ教集団の朗詠者の息子として生まれた。兄のベルトホルトからチェスとその他の多くのことを学んだ。兄自身もマスター級のチェス選手で、医学を勉強するためにベルリンに住み着いたとき一時期市内の喫茶店で小額を賭けて自活していた。幼いエマーヌエルは兄にあこがれ、また敬愛する両親からも学業での成功を運命づけられていたので、11歳の時に同居するように兄のもとに送り出された。しかし彼もまた喫茶店で多くの時間を過ごした。父はとうとう彼を誘惑から遠ざけるのが賢明だと考えてランツブルクの町の学校に行かせた。そこで彼は驚くべき数学の才能を発揮した。

 大学に通うためにベルリンに戻った時彼は喫茶店通いも復活し2、3年を伝統的な学生のその日暮らしでおくった。1888年に当世風のカフェ・カイザーホーフが後援した毎年恒例の大会に初めて参加し、他の者はもちろん自分も驚いたことに全勝しかなり高額の賞金を現金で獲得した。何年もつましい生活を送った後でのこの賞金は若いラスカーに強い印象を与えたに違いない。いずれにせよ彼は大学での学業を一時放棄しもっと大きなことに挑戦することにした。そこで1889年にドイツチェス連盟が大会を隔年開催していたブレスラウに旅立った。その大会には「最高競技会」(候補者大会)があり、優勝者は念願のマスターの称号を獲得できた。

(この章続く)

2009年10月06日

チェス世界選手権争奪史(51)

第3章 エマーヌエル・ラスカー(続き)

 ラスカーは確かに激闘の末に「最高競技会」で優勝しそれと共にマスターの称号を獲得した。しかし彼の勝利はもちろん大会の呼び物であった国際大会でのタラシュの見事な初優勝によって影が薄くなってしまった。ラスカーは続いてアムステルダムでの小さな国際大会に出場し2位になった。それからドイツとオーストリアでのもっと小さな大会に出た。その後は前任者のシュタイニッツのようにイングランドで腕試しをすることにし、続けていくつかのささやかな成功を収めたあと米国に渡った。タラシュとの番勝負を挑もうとしたのはこの遠くはなれた避難先からだった。この間にタラシュはさらに二つの一流大会に優勝し、ヨーロッパで次期世界選手権者と広くみなされていた。ラスカーの挑戦をけった傲慢さは何年か後に逆の立場に変わった。その時戴冠していたのはラスカーで、番勝負を求めたのはタラシュの番だった。

 ラスカーはタラシュの拒否に愉快な大胆さで応えた。それは代わりに世界チャンピオンのシュタイニッツに挑戦することだった。二人が当時米国にいたことは何かこれと関係があったに違いない。そして番勝負が成立しラスカーが勝った。

(この章続く)

2009年10月07日

チェス世界選手権争奪史(52)

第3章 エマーヌエル・ラスカー(続き)

 エマーヌエル・ラスカーはほぼ48年に渡ってチェスの大会に出場した。一流の競技会での試合のほとんどは現代のチェスが大きな発展を遂げていた時代だった。それにもかかわらず批評家たちは「彼はチェスの理論にほとんどか全く貢献しなかった」という点で一致していた(ウィリアム・ウインター著『チェスの王者たち』)。エーべ博士は『チェスの棋風の形成』という著書の「技術と型」という章にタラシュ、ピルズベリー、マーシャル、カパブランカと一緒にラスカーを含めている。その言わんとするところはシュタイニッツの後を継いだマスターたちは「既知の原則をほぼそのまま適用することだけを追求して」新しい原則を明確に打ちたてようとしなかったということである。もちろんこれが当てはまるのはチェスの原則が盤上のチェス駒同士の関係だけを問題にし、誤りを犯しがちな二人の人間によって不完全な理解とごく限られた時間で戦われる試合については何も言っていないことを認める場合だけである。シュタイニッツと、彼ほどではないが代表的な信奉者のタラシュはもっと抽象的な見方をしていた。そして既に見たようにシュタイニッツは理論的な原則にこだわるあまり誰もが驚くような実戦的な窮地に身を置いていた。これに反してラスカーは現存した最も実戦的な選手で、正しいチェスだけでなく勝つためのチェスの指し方を自分の実戦で何度も何度も実証した。

(この章続く)

2009年10月08日

チェス世界選手権争奪史(53)

第3章 エマーヌエル・ラスカー(続き)

 これは単にシュタイニッツは盤と対局しラスカーは人間と対局したというよく知られた言説を繰り返すものではない。明らかにラスカーは誰とも同じくらい盤と対局した。彼の才能の一番の根源は驚異的な戦術の能力と、周りの者を驚愕させる局面に潜む可能性の把握である。ウィーンのマスターのルドルフ・シュピールマンはラスカーのことを次のように書いている。

 『彼の目と構想はあらゆるところに及んでいる。経験からそう言える。なぜならよく彼と一緒に分析しようとしていたのだから。結果は私にとって本当に自信を失わせるものだった。私が良い構想やうまい手筋を思いつくや否やラスカーはそれを退けた。というのは彼はとっくの昔にそれを読みの中で既に捨てていたからだ。[数多くの典拠からの引用。例えばフレッド・ラインフェルド著「チェスの人間的側面」]』

(この章続く)

2009年10月09日

チェス世界選手権争奪史(54)

第3章 エマーヌエル・ラスカー(続き)

 しかしラスカーは圧倒的に実戦に主眼をおいて、名高い戦術能力を必要なだけ用いて眼前の問題を解決した。とにかくチェスにおいては知る必要がないことは知りたいと思わなかったのである。これについてはウィリアム・ウィンターが次のように証言している。

 『チェスに対する彼の姿勢は私が1936年のノッティンガム国際大会で彼と対戦した試合に如実に表れている。30分以上考えて私はポーンで取られる地点にナイトを置いた。ラスカーは即座に穏やかな受けの手で応じた。「妙手」によって私の得たものは貴重な持ち時間の浪費がすべてだったということにすぐ気づかされた。

 試合が終わった後ある観戦者が彼にナイトを取っていたらどうなっていたかと聞いた。彼は「知らない」と答えた。「私の相手は強いマスターで、もしその彼が30分も考えてナイトを取られる地点に置いたのだとしたらそのナイトを取るのはよくないだろうと考えてそのままにした。」[ウィリアム・ウィンター著「チェスの王者たち」]』

(この章続く)

2009年10月10日

チェス世界選手権争奪史(55)

第3章 エマーヌエル・ラスカー(続き)

 もちろんラスカーは彼より以前の誰よりも数多く人間とも対局した。初めの頃は彼のチェス心理の理解は比類がなかった。そしてタラシュのように心理的な弱点につけ込み易い相手に対して存分に活用した。しかし多くの評者はラスカーの試合によく見られる「心理的戦略」を見出した。そしてラスカーが敵の悪手を誘うためにわざと次善手を指すという見解が一般に広まった。次の局面はタラシュとの最初の世界選手権戦(1908年)の第2局だがよく引き合いに出される。
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黒番のラスカーはここで 14...Ng4 と指した。タラシュは強く見せかけの捨て駒の 15.Bxg7! で応じた(15...Kxg7 なら 16.Nf5+ から 17.Qxg4)。そして「突撃」の 15...Nxf2
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に対して 16.Kxf2? と指した。しかしここは 16.Qd4!
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と応じていれば白の勝ちだった。以下は例えば(16.Qd4 のあと)16...Ng4 17.Rf1 f6(17...Qe6 なら 18.Nf5)18.Nh5 +/-
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である。この試合の全体の解説はあとで出てくる。評者の中にはタラシュが 16.Qd4 から勝つにしてもいまひとつはっきりしない攻撃策をとるよりも1ポーン得で根拠のない「安全」な収局を選ぶことをラスカーが「知っていた」から 14...Ng4 と指したとしたり顔で言う者もいた。ラスカー自身の 14...Ng4 についての解説はその手を指した時の彼の心中を次のようにもっともらしく説明している。「これは良くない手だが黒は他に適当な手がない。」

(この章続く)

2009年10月11日

チェス世界選手権争奪史(56)

第3章 エマーヌエル・ラスカー(続き)

 ラスカーは生涯でわざと「次善手」を指していたことはないが、実戦的に最も可能性があると考えた手をたとえかなりの危険を覚悟する必要があっても常に指していたと断言しても過言ではないだろう。ラスカーにとってチェスは何よりもまず闘いであり、敵と自分の双方にとって可能な限りわざと事態を難解にすることがよくあった。そしてその後のねじり合いで敵を出し抜くことができる自信があった。この点において60年代と70年代に最も活躍した選手の中には彼にならった者もいた。最も著名なのはミハイル・タリとボビー・フィッシャーである。人生のようにチェスでも適者が生存するというラスカーの「原則」はチェスの理論に対する彼の最も重要な貢献である。

(この章続く)

2009年10月12日

チェス世界選手権争奪史(57)

第3章 エマーヌエル・ラスカー(続き)

 シュタイニッツを破って世界選手権を獲得した後ラスカーは自分が最強であることをとりわけタラシュと彼の信奉者たちに対して示す必要があった。1895年の夏にヘースティングズで開催された大きな大会に出場したのはそれを念頭においてのことだったのはいうまでもなかった。そのためチェス史の中で恐らく最も意外な番狂わせの優勝を遂げた22歳の米国人ハリー・ネルソン・ピルズベリーと手ごわいチゴーリンの後塵を拝して3位になったことはとても満足できるものではなかった。しかし4位のタラシュと5位のシュタイニッツよりは上位だった。

 1895年から1896年にかけての冬にサンクトペテルブルクで開催された競技会の結果ははるかに満足できるものだった。この大会にはヘースティングズ大会の上位5人が招待された。医学博士のタラシュは本業に戻らなければならないため辞退したがピルズベリー、チゴーリン、ラスカー及びシュタイニッツはロシアの冬をものともしなかった。この大会はのちに「番勝負競技会」と呼ばれた。即ち各選手は各対戦相手と短い番勝負-この大会では6試合-を戦った。そして得点を合計して優勝者が決まった。ラスカーが11½点で1位になりシュタイニッツが9½点、ピルズベリーが8点、チゴーリンが7点だった。

(この章続く)

2009年10月13日

チェス世界選手権争奪史(58)

第3章 エマーヌエル・ラスカー(続き)

 ラスカーがこの大会の結果を自分が真の世界選手権者に値することを証明したと受け取ったとすればシュタイニッツは自分がまだ最も正当な挑戦者であると受け取ったことだろう。この大会を開催する資金を拠出した人たちは直ちに同意し両者の再戦がすぐに準備され1896年の11月から開始されることになった。1896年の7月から8月にかけて開催されたニュルンベルク大会の結果はラスカーがまた優勝しシュタイニッツは6位で第2次番勝負の前の両者の相対的な実力をより正確に表した。

 2回目のラスカー対シュタイニッツの番勝負については二通りの考え方がある。一つには絶対やらせるべきではないと断言するものである。シュタイニッツはその時60歳を超えていて肉体的に病気を抱えていて、タイトル喪失で失った名声を取り戻そうとして精神的に崩壊寸前に追い込まれていた。もう一つは長い間保持していた王座を奪回する機会をラスカーが与えなかったらこの上ない不公正だとみなされ実際そのとおりだというものである。だから第2次番勝負は行なわれるべくして行なわれた悲劇の一つだと考えるのが妥当なところだろう。

(この章続く)

2009年10月14日

チェス世界選手権争奪史(59)

第3章 エマーヌエル・ラスカー(続き)

 番勝負は11月7日から始まりラスカーが1局目から4連勝した。5局目は引き分けで6局目はラスカーがまた勝った。3局引き分けが続いた後ラスカーがさらに2連勝し7勝無敗の成績になった。そこでシュタイニッツが2連勝した。14局目はラスカーが勝ち15局目は引き分けだった。そして16局目と17局目にラスカーが勝って10勝をあげタイトルを防衛した。第17局は老シュタイニッツが自分にとって大きな意味を持つタイトルを争う最後の試合となった。この試合は彼のチェス歴と人生を大きく彩ってきた雄々しい抵抗に似たものを必然に対して示したのに過ぎないとしても意義深いものがある。

クイーン翼ギャンビット拒否
白 シュタイニッツ
黒 ラスカー

1.d4 d5 2.c4 e6 3.Nc3 Nf6 4.Bg5 Be7 5.e3 O-O
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6.Qb3 Nbd7 7.Nf3 c6 8.Bd3 dxc4 9.Bxc4 b5 10.Be2 a6
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11.a4 b4 12.Nb1 c5 13.Nbd2 Bb7 14.a5 cxd4 15.exd4 Nd5
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16.Be3 Bd6 17.Nc4 Bc7 18.Bg5 f6 19.Bd2 Qe7 20.Ne3 Rab8
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21.Bc4 Rfd8 22.O-O Nf8 23.Rfe1 Qf7 24.Nf1 Kh8 25.Ng3 Bxg3
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26.hxg3 Ng6 27.Qd3 Rd6 28.Re2 Bc8 29.Ne1 Qd7 30.Nc2 e5
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31.Rae1 Bb7 32.Qb3 Bc6 33.Nxb4 Nxb4 34.Bxb4 Rxd4 35.Qc3 Bxg2
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36.Kxg2 Qc6+ 37.Re4 Rxe4 38.Rxe4 Qxe4+ 39.Kg1 Qb7 40.Bc5 Rd8
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41.Be2 e4 42.b4 Ne5 43.Be3 Nd3 44.Bb6 Rc8 45.Qd4 h6
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46.Kh2 Ne5 47.Qd1 Rc3 48.Qd6 Nf3+ 49.Kg2 Qf7 50.g4 Qa2
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51.Bf1 Nh4+ 52.Kg1 Rc1 53.Be3 Nf3+ 54.Kg2 Rxf1
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55.Qxa6(55.Kxf1 は5手詰み)55...Rg1+ 56.Kh3 Qd5 57.Qc8+ Kh7 58.a6 Rh1+ 59.Kg2 Nh4+ 白投了
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(最後はきれいに決まっている。60.Kxh1 なら 60...Qd1+ 61.Kh2 Qf3 62.Qf5+ Nxf5 63.gxf5 h5 から ...Ph4-h3 で詰みになる。)

(この章続く)

2009年10月15日

チェス世界選手権争奪史(60)

第3章 エマーヌエル・ラスカー(続き)

 4週間後シュタイニッツは神経衰弱を発症してモスクワの精神病院に入院した。回復後は米国に戻りその後ヨーロッパへはチェスを指すために一度しか行かなかった(最後の大会出場は1899年のロンドンで、長いチェス人生で初めて入賞を逃がした)。彼はとっくに実戦から引退すべきだったのは確かである。しかし彼はつましい生活をまだ全面的にチェスに依存していた。たぶん作り話だろうが一辺の真実味のある逸話がある。彼の崇拝者の一人が人生で十分な栄光を得ているのにどうして引退しないのかと尋ねた。「栄光ならもう要らない」とシュタイニッツは答えた。「しかし私には賞金が必要なんだ。」シュタイニッツはロンドンでの不成績の後ニューヨークに戻り完全に神経衰弱に陥った。そしてウォードアイランドの精神病院に収容されそこで1900年8月12日に亡くなった。

(この章続く)

2009年10月16日

チェス世界選手権争奪史(61)

第3章 エマーヌエル・ラスカー(続き)

 シュタイニッツはチェス一筋の人生だったが新チャンピオンは多くのさまざまなことに興味を持っていた。次の7年間にほぼチェスから引退していたのは興味の一つの数学に没頭するためだった。その間に参加したのは1899年のロンドンと1900年のパリの2大会だけでどちらも優勝した。ラスカーの伝記作家(『エマーヌエル・ラスカー あるチェス名人の生涯』の著者のジャック・ハナク)は彼を多彩な天才として描写しようとした。ラスカーは数学と哲学の思索からチェスを指すために時間を割かなければならないことをひどく呪うこともあった。彼にとってチェスは詰まるところ生活の手段だった。実際のところ数学では豊かな才能があり彼の研究は友人たちによって尊重されていた。友人の一人のアルベルト・アインシュタインとは議論したことがあった(これに対して彼の哲学の業績は大部の『未到の哲学』にほぼまとめられているがほとんど無視されている)。しかし彼が偉業を成し遂げたのはチェスだけである。

(この章続く)

2009年10月17日

チェス世界選手権争奪史(62)

第3章 エマーヌエル・ラスカー(続き)

 いずれにせよ当時の数学研究の成果は1902年にエルランゲン大学から授与された博士号に結実した。そして1903年までに米国に戻りチェス雑誌を編集した。1904年にはペンシルベニア州のケンブリッジスプリングズという当時の有名な保養地でその年の夏に開催された大きな大会で実戦に復帰し3位に入った。この大会の優勝者はちょっと意外にもフランク・J・マーシャルだった。

 フランク・ジェームズ・マーシャルは1877年8月10日にニューヨーク市で生まれた。世紀の変わり目頃には米国の最も好成績の世界的選手になっていてそれが30年も続いた。1909年には米国選手権を懸けた番勝負でジャクソン・W・ショウォールターを破って、1936年に自発的に返上するまでそれを保持した。いくつもの感嘆の妙手の張本人で少なからぬ重要な大会の優勝者である彼は世界チャンピオンも含めた誰にとっても容易ならぬ相手としてみなされていたのは確かだった。それにもかかわらず主としてケンブリッジスプリングズでの見事な優勝のゆえに世界選手権の番勝負が取り決められ行なわれた時、ラスカーが8勝0敗7分で勝ってしまった。

(この章続く)

2009年10月18日

チェス世界選手権争奪史(63)

第3章 エマーヌエル・ラスカー(続き)

 2年前にもほとんど同じ大差の成績(8勝1敗8分)でタラシュがマーシャルに勝っていたのでこの結果はまったく予想できないわけではなかったがマーシャルの多くのファンには大きな失望だったに違いない。マーシャル自身はかなり冷静に受け止めていたようだった。この後も若いカパブランカに1勝8敗14分で負けているので彼の相次ぐ惨敗は周りの者を当惑させるのに値する。同様の一方的な結果(例えば1971年挑戦者決定番勝負でボビー・フィッシャーがマルク・タイマノフとベント・ラルセンに6-0で完封勝ち)の解明にも通じるものがあるかもしれない。マーシャル自身は次のように書いている。

 『番勝負について言えばこの時期にいくつかの不運な結果をこうむった。誰もが知っているように番勝負よりも大会での結果の方が常に良かった。そしてそれは少しも不思議ではない。私はいつも新しい相手、新しい対局地、序盤での新手、目くるめく攻撃や反撃に魅了されていた。同じ相手とずっと戦うという陰うつな仕事は私の性に合わないのである。』[フランク・マーシャル著「私のチェス50年」]

(この章続く)

2009年10月19日

チェス世界選手権争奪史(64)

第3章 エマーヌエル・ラスカー(続き)

 番勝負と大会の戦い方はいろいろな点で大きく異なっていて明らかなものもあれば微妙なものもある。大会ではある日ひどい負け方をしても次は新たな選手が相手で、ある程度心機一転して立ち向かえるところがある。番勝負では昨日自分を負かした相手が今日もまた目の前にいる。そして気持ちを立ち直らせて彼を負かすことができると確信できるためには意志の力がいる。だから敗北の影響は積み重なるかも知れず、番勝負の初めの方で2、3敗すると惨敗を引き起こすかもしれない。確かにラスカーはマーシャルよりも強い選手だったが、成績が示すほど強さに差があったわけではない。マーシャルの述懐について付け加えるならば、明らかに自分より弱い相手とのいくつかの番勝負では勝っていた。

 ラスカーは当然ながら他にもっとふさわしい挑戦者がいるにもかかわらずマーシャルを選んだことに対して手厳しく非難された。例えばハンガリー人のゲザ・マローツィを挑戦者にできたかもしれない。彼は1904年のモンテカルロ、1905年のオーステンデ、1905年のバルメンというように大きな大会で3回連続優勝を飾っていた。そしてもちろんタラシュは必ず考えなければならない相手だった。

 タラシュとの番勝負は1904年にもう少しで実現するところだった。既に暫定的な合意がなされていたようだったが結局ご破算になった。次いでマローツィとの交渉が始まり彼との番勝負の仮の規約が1905年に「ラスカーのチェス雑誌」に発表された。しかしその番勝負はたぶんマローツィが土壇場で撤回したために行なわれなかった。それでマーシャルが残り番勝負が比較的容易にまとまった。その理由は対局地が米国で、米国人のマーシャルの人柄の良さが多くのスポンサーを集めることができたためだった。同じ相手に対してラスカーにタラシュの成績を上回ろうという気があったとしたら彼は確かに成功した。

(この章続く)

2009年10月20日

チェス世界選手権争奪史(65)

第3章 エマーヌエル・ラスカー(続き)

 しかしタラシュとの番勝負はほとんど避けられなかった。そしてついにドイツの2都市のミュンヘンとデュッセルドルフで1908年の8月から9月にかけて行なわれることになった。しかしその前に非常にとげとげしい交渉が延々と行なわれていた。二人の間の対立は激しく、タラシュが1894年のラスカーの挑戦をはねつけた時までさかのぼる。しかし他にも不一致があった。金銭もその一つである。タラシュは医者として裕福な生活で、必要ならば何も得られなくても対局する余裕があった。しかしラスカーはチェスが職業で、自分のタイトルを懸ける前に十分な金銭的取り決めを要求した。ラスカー自身がようやく待望の番勝負にこぎつけるまでの交渉の一端を次のようにかなり素朴に書き残している。

 『1908年6月4日にコーブルクを訪れた。この小都市は石で築かれていることを忘れさせるほどで、庭園や樹木、川や家々の向こうの緑の丘はこの上なく印象的である。翌日私はゲプハルト博士、ドイツチェス協会書記のシェンツェル氏、それにテラー氏と会ってタラシュ戦の状況について話し合った。私の立場は以前に手紙で説明してあった。議論は2時間半続き、私が取り決めの大まかな文書に署名して終わった。

 ベルリンで7月12日から。番勝負は引き分けは数えず先に8勝した者の勝ち。勝者は4千マルクの賞金を得、敗者は2千5百マルクの賞金を得る。ドイツチェス協会の指定する対局地に従うことによる、即ち入場料をすべて放棄することにより失う名誉の代償として私に7千5百マルク。』[ハナク著「エマーヌエル・ラスカー あるチェス名人の生涯」からの引用]

 この走り書きはラスカーの詩的な性格をかいま見せたことよりも、世界チェス連盟の創設以前の古きよき時代に世界選手権戦がどのように設定されたかを示す方により価値がある。さらに現代の記述を読むことから当時実際に何が起こっていたかを判断することがいかに難しいかを如実に示してもいる。最後の文章が何を意味しているかはまさに誰にも分からないことである。

(この章続く)

2009年10月21日

チェス世界選手権争奪史(66)

第3章 エマーヌエル・ラスカー(続き)

 ジークベルト・タラシュ博士は番勝負の頃46歳で、いくつかの点で少なくとも現代の視点ではかなりつまらない人物だった。もちろんほとんどの同時代の人たちに対しては十分好ましい印象を与えていた。1895年のヘースティングズ大会の本の編集者は彼を次のように書き記している。「最高の教育を身につけた人。この大会の観戦者は彼を非常に愛想がよくこぎれいで立派な身だしなみで、ボタン穴にいつも新鮮な花を挿している紳士と記憶するだろう。」彼をプロシア軍の支配体制への骨格を成す一般人やそれの意味するものすべてを象徴しているように思わせているのは服装や態度の几帳面さだけでなく明白な尊大さと時折かいま見せる傲慢さだった。それでも彼のチェスに対する愛情と献身は魅力的で立派だった。彼はかつてこう書いている。「チェスは愛や音楽と同じく人を幸せにする力がある。」そして選手としておよび著者としてのチェスに対する彼の貢献は、基準はどうあれチェスから得たのと同じくらいのありったけをチェスに注ぎ込んだと言ってよいかもしれない。

 選手や一人の人間としての彼の欠点については心理分析者のラスカーはもちろん熟知していた。番勝負の前夜に対戦相手について次のように書き記している。

 『タラシュ博士は思索家で深遠で複雑な考察が非常に好きである。しかし・・・彼は断固とした自信と勇気によって偉大なことが成される時の血を沸き立たせるような情熱に欠けている。』[ラインフェルド著「チェスの心理的側面」からの引用]

 タラシュのラスカー観は残っていない。しかしたぶん血を沸き立たせる情熱という隠喩(いんゆ)は少なくとも下品でつまらないと考えただろう。第1局の開始直前に行なわれるかもしれなかった二人の和解は次のように無に帰した。ラスカーの伝記作家によるとタラシュは握手を拒否し『こわばった軽い会釈をし「ラスカー殿、貴殿に対して私の言う言葉は『チェック、そして、詰み』の3語だけである」と声高に言った。』(ハナク)番勝負はこんな雰囲気の中で始まった。

(この章続く)

2009年10月22日

チェス世界選手権争奪史(67)

第3章 エマーヌエル・ラスカー(続き)

 第1局はラスカーの白番でルイロペスの交換戦法を指した。布局の手については(48)のラスカー対シュタイニッツ戦第9局を参照されたい。ラスカーは序盤で優勢になったがタラシュもよく守りほとんど互角の形勢にできそうになった時に致命的な悪手が出てラスカーが収局で勝ちを収めた。第2局は挑戦者の方からすれば一層悪い内容だった。

ルイロペス
白 タラシュ
黒 ラスカー

1.e4 e5 2.Nf3 Nc6 3.Bb5 Nf6 4.O-O d6 5.d4 Bd7 6.Nc3 Be7 7.Re1
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7...exd4(7...O-O? は次のようにいわゆる「タラシュの罠」にはまる。8.Bxc6 Bxc6 9.dxe5 dxe5 10.Qxd8 Raxd8 11.Nxe5 Bxe4 12.Nxe4 Nxe4
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13.Nd3 f5 14.f3 Bc5+ 15.Nxc5 Nxc5 16.Bg5
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から 17.Be7 で白の交換得になる。)8.Nxd4 O-O 9.Nxc6(9.Bxc6 や 9.Bf1 の方が普通である。実戦の手はタラシュの十八番の手だったがラスカーは先刻承知だったに違いない。)
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9...Bxc6(9...bxc6! 10.Bd3 Re8)10.Bxc6 bxc6 11.Ne2
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11...Qd7?(もちろん 11...Nxe4? は 12.Nd4 d5 13.Nxc6 Qd6 14.Nxe7+ Qxe7 15.f3 +- でだめであるが、11...d5 12.e5 Ne4 13.Nd4 Qd7 または 11...Re8 12.Nd4 c5 13.Nf5 Nd7 14.Qg4 Bf6 なら完璧ではないが実戦よりは優った。)12.Ng3 Rfe8(ある解説者によると黒のルークは一つは ...d5 突きを実現するためにd8に、そしてもう一つはb8に配置すべきだとのことである。それは確かにそうだが黒は既に態勢をひどく損ねている。)13.b3 Rad8 14.Bb2 Ng4
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(この局面は(55)で詳細に論じた。)15.Bxg7 Nxf2 16.Kxf2? Kxg7 17.Nf5+ Kh8 18.Qd4+ f6 19.Qxa7
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(白は1ポーン得になったが黒の黒枡支配と敵キングに対する攻撃の可能性により明らかにポーン損を補っている。)19...Bf8 20.Qd4 Re5 21.Rad1
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(この手は手厳しく批判されてきたが、この手自体に悪いところは何もなく明らかにこれに優る手はない。)21...Rde8 22.Qc3 Qf7 23.Ng3 Bh6 24.Qf3 d5 25.exd5 Be3+ 26.Kf1 cxd5
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27.Rd3?(27.Nf5!)27...Qe6 -/+ 28.Re2 f5 29.Rd1 f4 30.Nh1 d4 31.Nf2 Qa6
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32.Nd3 Rg5 33.Ra1 Qh6 34.Ke1 Qxh2 35.Kd1 Qg1+ 36.Ne1 Rge5
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37.Qc6 R5e6 38.Qxc7 R8e7 39.Qd8+ Kg7 40.a4 f3 41.gxf3 Bg5 白投了
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(この章続く)

2009年10月23日

チェス世界選手権争奪史(68)

第3章 エマーヌエル・ラスカー(続き)

 たちまち2連敗したタラシュは第3局を快勝して巻き返した。

ルイロペス
白 ラスカー
黒 タラシュ

1.e4 e5 2.Nf3 Nc6 3.Bb5 a6 4.Ba4 Nf6 5.O-O Be7 6.Re1 b5 7.Bb3 d6 8.c3

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8...Na5

 現代の手順は 8...O-O で、通常は 9.h3 なのでそれを待って 9...Na5 と指す。しかし本局はすぐにその手順に戻る。

9.Bc2 c5 10.d4 Qc7 11.Nbd2 Nc6 12.h3 O-O

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13.Nf1

 ここからのポーン損はラスカー得意の手だった。彼は十分成立すると考えていたようだった。13.dxc5 と取った後シュタイニッツ流に Nf1-e3-d5/f5 と捌くのは今でも最もよく指される戦法である。もっとも最近では 13.d5 と封鎖する手も少し復活してきた。例えば1970年パルマ・デ・マリョルカでのインターゾーナルのゲレル対スミスロフ戦は 13.d5 Nd8 14.a4 Rb8 15.b4 c4 16.Nf1 Ne8 17.axb5 axb5 18.N3h2 +/=
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と進んだ。

13...cxd4 14.cxd4 Nxd4

 14...exd4 の方が良いのかは分からない。そう指せば黒はナイトをe5の地点におく手順に恵まれるかもしれない。どちらの手でも黒の方が形勢が良さそうである。

15.Nxd4 exd4

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16.Ng3

 第6局のこの局面でラスカーは 16.Bg5 と手を変え次のように進んだ。16...h6 17.Bh4 Qb6 18.Qd3 g5? 19.Bg3 Be6 20.Rad1 Rfc8?
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21.Bb1 Nd7 22.e5 Nf8 23.Qf3 d5 24.Qh5 Kg7 25.f4 f5
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26.exf6+e.p. Bxf6 27.fxg5 hxg5 28.Be5 d3+ 29.Kh1 Ng6
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30.Qxg5 Bf7 31.Ng3 Bxe5 32.Rxe5 Rh8 33.Bxd3 Ra7
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34.Rde1 Kf8 35.Bxg6 Qxg6 36.Qe3 Rc7 37.Nf5 Qc6 38.Qg5 黒投了
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タラシュはこの敗戦にひどい衝撃を受けこの番勝負の残りの試合では二度と 1.e4 に対して 1...e5 と指さなくなった。感情にかられた判断だったことは明らかで、フランス防御の3試合で½点しかあげられなかったように大きな障害になった。

16...Nd7 17.Bb3 Qb6

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18.Nf5

 白は 18.Bd5 Ra7 19.b3 g7(19...Bf6 なら 20.Nh5)20.Bb2 Bf6 21.Qd2 から 22.Rad1 でポーンを取り返すこともできた。しかしラスカーはまだキング翼攻撃を行なうことができると考えていた。

18...Bf6 19.Bf4 Ne5!

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20.Bd5

 20.Nxd4 は 20...Bxh3! 21.gxh3 Qxd4 22.Qxd4 Nf3+ 23.Kg2 Nxd4 24.Bxd6 Nxb3 25.axb3 Bxb2
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で黒が1ポーン得になる。

20...Ra7 21.Qb3 Rc7 22.g4 g6 23.Nh6+ Kg7 24.g5 Bd8 25.Qg3

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25...f6!

 黒は 26...fxg5 27.Bxg5 Bxg5 28.Qxg5 Nf3+ の狙いで主導権を握った。本譜の手に対して白は 26.gxf6+ Rxf6 27.Bxe5 dxe5 28.Ng4 と応じることはできない。それは 28...Bxg4 29.hxg4 d3!
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となって黒が白のf2の地点に必殺の攻撃をかけることができる。

26.Nf5+ Kh8

 26...gxf5? は 27.gxf6+ Kh8 28.Bh6 で白が勝つ[訳注 28...Rff7 29.Bxf7 Rxf7 30.Bg7+ Kg8 31.Bh6+ Kh8 で互角です]。

27.Nh4 fxg5 28.Bxg5 Bxg5 29.Qxg5 d3 30.Kh1 Rc2

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31.Re3

 この手は 31...Qxf2 を防いだ。

31...Rfxf2 32.Ng2 d2 33.Rg1 Rc1 34.Qe7 Rxg1+ 35.Kxg1 d1=Q+ 36.Kxf2 Qf3+ 37.Ke1 Qa5+ 38.Rc3 Bxh3 39.Qxd6 Qaxc3+!

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 これが勝利への最短の手である。

40.bxc3 Qxc3+ 41.Ke2 Qc2+ 42.Ke3 Qd3+

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43.Kf4

 43.Kf2 なら 43...Qd2+ 44.Kg3 Qxg2+ 45.Kf4 Qf3+ 46.Kg5 h6+ のあと1手で詰む。

43...g5+ 44.Kxg5 Nf7+ 白投了

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(この章続く)

2009年10月24日

チェス世界選手権争奪史(69)

第3章 エマーヌエル・ラスカー(続き)

 第4局でラスカーは奇怪なクイーン翼ルークの捌き(「心理作戦」だという評者もいた)を見せた。しかしタラシュは難解な局面で指し手を誤った。それが次の局面である。

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 タラシュはここで 25.Nb5?(25.bxc5!)と誤った手筋を放った。そして 25...cxb4 26.Rxd6 Rxd6 27.e5 Rxf4!
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で敗勢に陥った。以下は28.gxf4 Qg6+ 29.Kh1 Qb1+ 30.Kg2 Rd2+
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と進んで黒が楽勝した。

(この章続く)

2009年10月25日

チェス世界選手権争奪史(70)

第3章 エマーヌエル・ラスカー(続き)

 第5局もタラシュが負けたとき番勝負は終わったも同然だった。タラシュが次に勝ったのは第10局だった。対戦成績はラスカーの5勝2敗になった。しかしラスカーは第11局を短手数で勝ってタラシュの巻き返しの希望を完全に打ち砕いた。

フランス防御
白 ラスカー
黒 タラシュ

1.e4 e6 2.d4 d5 3.Nc3 Nf6 4.Bg5 Bb4
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5.exd5 Qxd5 6.Nf3 c5 7.Bxf6 gxf6 8.Qd2 Bxc3
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9.Qxc3 Nd7 10.Rd1 Rg8 11.dxc5 Qxc5 12.Qd2 Qb6
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13.c3 a6? 14.Qc2 f5 15.g3 Nc5 16.Bg2 Qc7
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17.Qe2 b5? 18.O-O Bb7 19.c4 b4 20.Qd2 Rb8
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21.Qh6 Bxf3 22.Bxf3 Qe5 23.Rfe1 Qxb2 24.Qf4 Rc8
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25.Qd6 f6 26.Bh5+ Rg6 27.Bxg6+ hxg6 28.Rxe6+ 黒投了
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(この章続く)

2009年10月26日

チェス世界選手権争奪史(71)

第3章 エマーヌエル・ラスカー(続き)

 第16局でタラシュが時間に追われてとんでもないポカをやって番勝負が終わった。最終結果はラスカーの8勝3敗5分だった。お決まりの世評は「タラシュが何年か前の全盛期にラスカーと対戦していたら・・・」だった。しかし46歳でタラシュの棋力が目だって落ちた兆候はない。そして時に高くついた柔軟性のなさは全盛期にも付きまとっていた。彼は機会がありながらそれを生かせなかっただけだった。

 ラスカーは1909年にサンクトペテルブルクでの大きな国際大会に参加し、自分を負かした若いポーランド人のアキバ・ルビーンシュタインと共に同点優勝した。両者の間の番勝負は話だけで進展しなかった。もっともラスカーは1909年から11年にかけてダビド・ヤノフスキーと2回、カルル・シュレヒターと1回番勝負を行ない3度のタイトル防衛を果たした。

 ヤノフスキーとシュレヒターほど好対照をなす対戦相手と個性の二人は考えにくい。ヤノフスキーはポーランド生まれだがパリに移住していた。すらりとして敏捷でこざっぱりとして華やかで、盤上でももっと通常の場面でも常習的なギャンブラーだった。彼は長年の間モンテカルロ大会に毎年参加しいつも賞金を、バカラやルーレットをしてカジノの主催者に返していた。彼の攻撃的な棋風はもちろん観戦者をとりこにした。ウィーン生まれのシュレヒターも小柄で繊細だった。しかし生活は極端に控えめでチェスは用心深かった。生涯をとおして引き分けの名人として広く知られ、はるかに格下の相手とも点を分け合って満足するのが普通だったが彼を負かすのは至難の業だった。彼にはいかにもウィーンっ子らしいところや上品なところがあり、旧世界の騎士道を重んじて彼を知るみんなから敬愛された。

(この章続く)

2009年10月27日

チェス世界選手権争奪史(72)

第3章 エマーヌエル・ラスカー(続き)

 しかしこの二人を対戦相手として見た時の一番の違いはヤノフスキーの方がずっと弱かったということだった。彼がなんとかラスカーとの対戦にこぎつけたのはピエール・ナルデゥスという裕福な後援者を持っていたからだった。ナルデゥスはどういうわけかヤノフスキーを天才だと思っていた。ラスカーがサンクトペテルブルク大会からの帰途パリに立ち寄ったときナルデゥスが彼と接触しどんな条件ならヤノフスキーとタイトルを懸けて戦うかと聞いた。ラスカー(身なりのよい人物を品定めしながら頭の中ですばやく計算している様子が想像できる)は途方もない要求を持ち出したが、たぶん彼も驚いただろうに交渉は終わりにならなかった。最終的に一種のお好み試合として4局戦うことで合意が成立した。その意図はもしヤノフスキーが善戦すれば今度はタイトルを懸けてもっと長い番勝負のためにお金が用意されるということだった。無邪気な人たちには大きな驚きだったがヤノフスキーは大健闘し2勝2敗で世界チャンピオンと互角に渡り合った。それから両者はタイトルを懸けて対戦しラスカーが7勝1敗2分で勝った。

 シュレヒター戦は全然異なる経過をたどった。交渉はタラシュ戦のあとまもなくゆっくりと進められた。最初はロンドンで30番勝負、お金がなかなか集まらないのでそれが15番勝負になった。最後はウィーンとベルリンで10番勝負にするしかないと決められた。そして1910年1月7日からシュレヒターの地元で始まった。

 世界選手権を懸けてたった10局の番勝負を戦うのは明らかに異例である。しかしシュレヒターの辛抱強い性向を考慮すれば、挑戦者がタイトルを奪うためには2点勝ち越さなければならないという規定を用心にも用心を重ねて盛り込まなければラスカーは全くの愚かだろう。シュレヒターは自分の課題が不可能にも近いことを十分分かっていたがそれを受け入れるしかなかった。このようにして待望の対決が真剣勝負というよりもお好み対局の性格を帯びるようになった。

(この章続く)

2009年10月28日

チェス世界選手権争奪史(73)

第3章 エマーヌエル・ラスカー(続き)

 それどころか試合内容はつまらないどころではなかった。ほとんどの場合二人の強豪が相手の読みを出し抜こうとして死力を尽くし、もう少しのところで勝ちを奪えなかった。最初の4局はシュレヒターがほとんどの間主導権を維持していたが引き分けに終わった。第5局は今回はラスカーが攻めたがずっとまたしても引き分けに終わるように見えた。

ルイロペス
白 シュレヒター
黒 ラスカー

1.e4 e5 2.Nf3 Nc6 3.Bb5 Nf6 4.O-O d6 5.d4 Bd7 6.Nc3 Be7
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7.Bg5(ここは 7.Re1 が決まりきったような手だがラスカーはサンクトペテルブルク大会で実戦の珍しい手を指したことがあった。)7...O-O(この手は不当な批判を受けてきた。前述の1909年サンクトペテルブルク大会のラスカー対コーン戦では 7...exd4 8.Nxd4 O-O 9.Bxc6 bxc6 10.Qd3 と進んで白が少し有利だった。)
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8.dxe5(ここで 8.Bxc6 は 8...Bxc6 9.dxe5 dxe5! 10.Qxd8 Bxd8 11.Nxe5 Bxe4 12.Bxf6 Bxf6 13.Nd7 Bxc3 14.Nxf8 Bxb2
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となって明らかに黒に交換損の代償がある。)8...Nxe5 9.Bxd7 Nxd7 10.Bxe7 Nxf3+ 11.Qxf3 Qxe7
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12.Nd5 Qd8 13.Rad1 Re8 14.Rfe1 Nb6 15.Qc3 Nxd5
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15.Rxd5(16.exd5 は半点に終わるといっても時期尚早でない。白陣の広さによるわずかな優位を生かそうとしても自滅までは行かなくとも自分の陣形を悪くするだけである。)16...Re6 17.Rd3 Qe7 18.Rg3 Rg6 19.Ree3 Re8 20.h3 Kf8 21.Rxg6 hxg6
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22.Qb4 c6 23.Qa3 a6 24.Qb3 Rd8 25.c4 Rd7 26.Qd1 Qe5
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27.Qg4 Ke8 28.Qe2 Kd8 29.Qd2 Kc7 30.a3 Re7 31.b4 b5!
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(ここでは黒が少し優勢である。そして黒が勝ちを目指し始める。)32.cxb5 axb5 33.g3 g5 34.Kg2 Re8 35.Qd1 f6
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36.Qb3 Qe6 37.Qd1 Rh8 38.g4 Qc4 39.a4
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(白が傍観していれば黒はじっくりと陣形を強化し ...c5 でクイーン翼から敵陣突破を図ることができる。実戦のポーンの犠牲はまたとない好機で、両者にとって非常に難解な戦いになる。)39...Qxb4 40.axb5 Qxb5 41.Rb3 Qa6 42.Qd4 Re8
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43.Rb1 Re5 44.Qb4 Qb5 45.Qe1 Qd3 46.Rb4 c5
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47.Ra4 c4 48.Qa1 Qxe4+ 49.Kh2 Rb5
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50.Qa2(50.Ra7+ は 50...Kd8 51.Rxg7 Qe5+ で黒勝ちの収局になる。)50...Qe5+ 51.Kg1 Qe1+ 52.Kh2 d5 53.Ra8 Qb4 54.Kg2
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54...Qc5?(このポカが敗着となった。54...Rb7 なら白が2ポーン損を補えるかどうかまだ怪しかった。)55.Qa6 Rb8(55...Rb7 は 56.Qe6 で白が勝つ。黒は 55...c3!? でクイーンを取らせるのが実戦的に最も有望だった。)56.Ra7+ Kd8(56...Qxa7!?)57.Rxg7 Qb6 58.Qa3 Kc8 59.Qf8+ 黒投了
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あと2手で詰む。

(この章続く)

2009年10月29日

チェス世界選手権争奪史(74)

第3章 エマーヌエル・ラスカー(続き)

 1点勝ち越したが残りわずか5局で、シュレヒターがすべてを投げ打っても失うものは何もないと考えたとしてもごく当然で、もう1勝目指して神風攻撃のように指し始めた。ラスカーはチェスで一番簡単に負ける方法は引き分けを目指して指すことだということは知り抜いているので正面からぶつかって戦う以外になかった。その結果はさらなる4引き分けだった。

 第10局が一層わけの分からない内容になったのはそのような状況で指されたことを知らないと理解できない。

スラブ防御
白 ラスカー
黒 シュレヒター

1.d4 d5 2.c4 c6 3.Nf3 Nf6 4.e3 g6
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(この手は後にスラブ防御のシュレヒター戦法として知られるようになった。もちろん黒には他に5、6手候補手があるがそれらよりも攻撃的で危険を伴う。)5.Nc3 Bg7 6.Bd3 O-O 7.Qc2 Na6 8.a3 dxc4 9.Bxc4 b5
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10.Bd3 b4 11.Na4 bxa3 12.bxa3 Bb7 13.Rb1 Qc7 14.Ne5
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14...Nh5(14...Nd7? 15.Rxb7!)15.g4(15.O-O!)15...Bxe5 16.gxh5 Bg7 17.hxg6 hxg6 18.Qc4 Bc8
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19.Rg1(19.Bxg6 は 19...Be6 20.Bxf7+ Bxf7 21.Qxa6 Bd5 で黒の攻撃がきつい。)19...Qa5+ 20.Bd2 Qd5 21.Rc1 Bb7 22.Qc2 Qh5
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23.Bxg6?(23.Bc4 なら白が大いに優勢だった。)23...Qxh2 24.Rf1 fxg6 25.Qb3+ Rf7 26.Qxb7 Raf8!
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27.Qb3(27.Qxa6? Rxf2 28.Rxf2 Rxf2 29.Qc8+ Kh7 30.Qg4 Rxd2 31.Qf3 Rg2 +-)27...Kh8 28.f4 g5! 29.Qd3 gxf4 30.exf4 Qh4+
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31.Ke2 Qh2+ 32.Rf2 Qh5+ 33.Rf3 Nc7 34.Rxc6 Nb5! 35.Rc4
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35...Rxf4?(35...Rd8! 36.Be3 e5! -/+)36.Bxf4 Rxf4 37.Rc8+ Bf8 38.Kf2! Qh2+ 39.Ke1
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39...Qh1+?(39...Qh4+ なら黒はまだ引き分けにできた。以下は 40.Kd2! Qh2+ 41.Ke3 Rxf3+ 42.Kxf3 Qh3+ から 43...Qxc8 =)40.Rf1 Qh4+ 41.Kd2 Rxf1 42.Qxf1 Qxd4+ 43.Qd3 Qf2+ 44.Kd1
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44...Nd6(ここから白はゆっくりだが確実に戦力得に物を言わせて勝ちきった。)45.Rc5 Bh6 46.Rd5 Kg8 47.Nc5 Qg1+ 48.Kc2 Qc1+ 49.Kb3 Bg7
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50.Ne6 Qb2+ 51.Ka4 Kf7 52.Nxg7 Qxg7 53.Qb3 Ke8 54.Qb8+ Kf7
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55.Qxa7 Qg4+ 56.Qd4 Qd7+ 57.Kb3 Qb7+ 58.Ka2 Qc6 59.Qd3 Ke6
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60.Rg5 Kd7 61.Re5 Qg2+ 62.Re2 Qg4 63.Rd2 Qa4 64.Qf5+ Kc7
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65.Qc2+ Qxc2+ 66.Rxc2+ Kb6 67.Re2 Nc8 68.Kb3 Kc6 69.Rc2+ Kb7 70.Kb4 Na7 71.Kc5 黒投了
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(この章続く)

2009年10月30日

チェス世界選手権争奪史(75)

第3章 エマーヌエル・ラスカー(続き)

 シュレヒター戦からチェスでの成功の秘訣は相手を慎重に選ぶことだと学んだことを示すかのようにラスカーが1910年11月にまたもタイトルを防衛した時の相手はヤノフスキーで結果はラスカーの8勝0敗3分だった。

 世界選手権の出来事とは別に第一次世界大戦直前の2、3年はチェス界が沸き立った年だった。ロシアの20歳のアレクサンドル・アリョーヒンが1910年夏のハンブルク大会で国際的にデビューしたことはほとんど注目されなかったが(同点7位だった)、23歳のキューバ人のホセ・ラウル・カパブランカが1911年にサンセバスティアンで始めてヨーロッパに登場したのはそうではなかった。

 カパブランカは既に12歳の時の1900年にフアン・コルソとの番勝負に勝ってキューバチャンピオンになった時少し評判になっていた。しかしそれからしばらくは真剣なチェスを指さなかった。そしてニューヨークのコロンビア大学在学中にそこの界隈で評判になり1909年にフランク・マーシャルとの番勝負が設定された。結果はカパブランカが8勝1敗14分であっさり勝った。

 マーシャル戦での圧勝によりカパブランカはサンセバスティアン大会に招待された。他の参加者の中には異議を唱えるものもあり、その中のオシップ・ベルンシュタイン博士は彼を参加させることには何のメリットもないと主張した。それはたぶんマーシャルが試合を放棄したのかという懐疑のうわさがあったためだった。しかし若きカパブランカは真のフランク・メリウェル流に初戦でベルンシュタインを負かした。その試合は後に名局賞をとり、カパブランカは大会に優勝した。[訳注 フランク・メリウェルは第二次世界大戦中の米国の准将で、彼の指揮下の兵士たちは中国、旧ビルマ、インド方面のジャングル戦が巧みだった。]

(この章続く)

2009年10月31日

チェス世界選手権争奪史(76)

第3章 エマーヌエル・ラスカー(続き)

 世界中のチェス愛好者にこのニュースが知れ渡る前に同程度の衝撃が1912年に起こった。それはアキバ・ルビーンシュタインがサンセバスティアン(短い期間毎年開催されていた)、ピエシュチャニ、ブレスラウ、ワルシャワそれにビリニュスで大きな5大会連続優勝したことだった。これは空前絶後の偉業だった。ルビーンシュタインはロシア領ポーランドの小さな町出身のずんぐりした陰気な人物でタルムード[訳注 ユダヤの律法と注解集大成本]学者としての経歴を捨てていた。最初の重要な大会に参加したのは1907年でそれから優勝につぐ優勝を重ねた。カパブランカとルビーンシュタインのような二人の若手の出現は、ある有力権威者たちの言うところの西欧文明の残りが老衰の断末魔にいる時にチェス界に最も強烈な興奮をもたらしたに違いない。

 カパブランカにせよルビーンシュタインにせよもちろん当然の挑戦候補だった。そしてまもなくカパブランカがチャンピオンに番勝負の条件を提示するよう要求した。ラスカーはそれに応じて提示したが、当初の条件はまともな挑戦者ならとても飲めないような代物(しろもの)だった。番勝負はタイトル保持者の指定する年月日と場所で行なうことになっていた。試合数は最大30局で先に6勝した方が勝者だった。30局終了した時点で互角の成績または一方が1勝しか差をつけていないならば番勝負は引き分けでチャンピオンのタイトル防衛だった。実際番勝負が互角で終了した場合は、チャンピオンが特権で額を決める賭金は出資者に返金され、チャンピオンが挑戦者に彼の勝局ごとに250ドル、引き分けごとに75ドル払い、番勝負の出版権はすべてチャンピオンに属することになっていた。ラスカーの案には他にも議論の的になる点があった。それは挑戦者が2千ドルの違約金(!)を供託することと持ち時間が12手につき1時間と異常に長いことだったが、2勝差で勝利者が決まるという例の規定はもちろんその最たるものだった。

 しかしカパブランカは十分な時間があれば2点差でラスカーを負かせる自信を持っていた。主として異議があったのは30局という制限で「この条件の不公平さは明らかである」と返事を書いた。ラスカーは新聞での声明で反論しカパブランカの言葉を「不快で無礼である」と決め付けた。それで交渉は当分の間沙汰やみになった。

(この章続く)

2009年11月01日

チェス世界選手権争奪史(77)

第3章 エマーヌエル・ラスカー(続き)

 1912年の終わり頃にラスカーはルビーンシュタインとの交渉を始めた。しかしルビーンシュタインの驚くべき一連の優勝にもかかわらず対戦をまかなうための資金は獲得できなかった。それは彼が目立たない性格で富裕な後援者がほとんどできなかったためだった。それでもドイツ、ポーランドそれにロシアのいろいろなチェスクラブがなんとか十分な資金を集めることができれば、1914年のいつか番勝負を戦うというところまで合意ができた。

 1914年の4月にラスカーはサンクトペテルブルクの大きな大会で実戦に復帰した。参加者にはカパブランカとルビーンシュタインも含まれていた。対戦方式は少々変わっていた。まず11選手が1回戦総当たりを戦った。それからそのうちの上位5選手だけが2回戦総当たりの決勝戦に進んだ。予選の結果は決勝にそのまま持ち越された。第1段階が終わってカパブランカが8点、ラスカーとタラシュが6½点、アリョーヒンとマーシャルが6点、ルビーンシュタインは同点6位で決勝に進めなかった。ラスカーの逆転優勝の偉業は劇的なカパブランカとの最終戦の勝利によるもので、チェス史上の決定的瞬間の一つに数えられるものだった。老練なチャンピオンにとってささやかな個人的満足という程度のものではなく、大会期間中両者の間で醸成されてきた名ばかりの和解によってもほとんど薄められるものではなかった。

 やや不満足な結果に終わった大会だったがカパブランカはサンクトペテルブルク大会で一つの小さな勝利を収めた。それは世界選手権戦を規定するために彼が策定した一連の規定がラスカーを含めた他の参加者たちによって原則的に承認されたことだった。同じ年のもっと後にこれらの規定がマンハイム総会の投票にかけられやはり承認された。内容は次のようなものだった。

 1.チャンピオンはタイトル獲得後1年以内に、その後は1年おきに挑戦を受けなければならない。

 2.世界選手権戦での持ち時間は15手につき1時間とする。

 3.番勝負の勝者は6局または8局勝ち越した者とする。どちらにするかはチャンピオンが決める。

 4.番勝負の賞金は1千ポンドを下回らないものとする。(これらの規定を後述する1922年ロンドンでの番勝負での規定と比較してみるとよい)

 ルビーンシュタインとの番勝負の資金がまだ集まらなかったのとこの両者が会ってもまだ言葉を交わす程度の仲だったので、ラスカーとカパブランカの対戦の交渉を真剣に始めた方が論理的だった。しかし論理は次の4年間に世界で起きた出来事に成すすべがなかった。1914年8月14日オーストリアのフェルディナント大公がサラエボで暗殺され、チェスのすべての国際的な活動だけでなく他の多くのことが完全に止まってしまった。

(この章終わり)

2009年11月02日

チェス世界選手権争奪史(78)

第4章 ホセ・ラウル・カパブランカ

 人間の精神の多くの限界の中でも現代の世界で最もしばしば明らかなのは、いかなる規模の出来事も漠然としか理解できないということである。第一次世界大戦では850万人が亡くなった(ベルダンの戦いだけでほぼ50万人)。しかしこれらの統計はその規模ゆえにピンと来ない。しかし我々は意義をいくらか理解できる個々の事例に光を当て象徴化することによって補っている。純粋に人間の言葉では1918年のクリスマスにカルル・シュレヒターが地元のウィーンで餓死したことはすべての統計よりも意味あることかもしれない[訳注 正しくは12月27日にブダペストで肺炎のため死去]。

 戦争期間中を米国で過ごしたカパブランカは1919年9月にヨーロッパに戻りヘースティングズ戦勝大会で優勝した。ラスカーとの交渉は速やかに再開されほとんど同じくらい速やかに決裂した。番勝負をオランダで行なうことを念頭に開かれたいくつかの会合も無駄になった。その後ラスカーによると1920年6月17日にブエノスアイレスのあるチェスクラブから5月15日付で同市での番勝負を開催する提案の手紙が届いた。ラスカーは返事で自分の条件を繰り返した。ブエノスアイレスの主催希望者は条件は挑戦者に不公平であるというカパブランカの主張を支持した。これに対してラスカーは降参してタイトルを放棄しカパブランカを後継チャンピオンに指名した。

 このタイトル放棄を額面どおりに受け取るわけにはいかない。それでもラスカーが本気だったという有力な証拠がある。いずれにしてもカパブランカとの論争で相手の方にほとんどまんべんなく同情が集まったことに憤慨していたのは明らかである。チェス界はもちろん番勝負を行なえとわめき続けていた。そしてハバナ・チェスクラブがカジノ賭博場と協同して、開催に2万ドル、チャンピオンに1万1千ドルの保証金を提案した時ラスカーは受諾した。勝者は先に8勝をあげた者で、試合数はさらに短く24局で、チャンピオンの当初の他の要求は黙って取り下げられていた。

(この章続く)

2009年11月03日

チェス世界選手権争奪史(79)

第4章 ホセ・ラウル・カパブランカ(続き)

 ホセ・カパブランカ(1888年11月19日生まれ)は番勝負当時33歳で、ある評者によると「中くらいの身長でほとんどきゃしゃに近く極めて気品があり髪は直毛で真っ黒、細く白い筋で等分にぴんと分けられている」、いわば一種の知的なルドルフ・バレンチノだった。彼なりの「スプレッツァトゥーラ」以上の人物として最も簡潔に描写されているようである。このイタリア語は通常は「無関心」と訳されるが実際は技巧を隠し「何の苦労もなくほとんど何も考えずにやったり言ったりしているように見せる」技法を意味している。これはカパブランカにして初めてできることだった。著書の『私のチェス履歴』の序章でどのようにしてチェスを覚えたかを書いているが、ちょっとほほえましいものがある。

 『たまたま父の書斎に入ったところ父がある紳士とチェスを指しているのを見たのはまだ5歳にならないときだった。それまでチェスを見たことはなかった。チェスの駒は私の興味を引き付けた。翌日また二人の対局を見に行った。三日目のことだが超初心者の父がナイトを白枡から白枡へ動かすのを目撃した。相手も明らかに下手な選手でそれに気づかなかった。父が勝って私は彼の所に行きペテン師呼ばわりし笑った。ちょっと口論になりその間もう少しで部屋から追い払われそうになったが父に彼のしたことをやって見せた。父はどのようにしてチェスを覚えたのかと聞いた。私は父を負かせると答えた。父は私が駒を正しく並べられないくせに自分を負かすことはあり得ないと言った。本当かどうかやってみると私が勝った。それが始まりだった。』

 それからは自分の人生の平穏を乱すような小さな挫折もほとんどなく順風満帆だった。キューバ政府が彼に外交官の業務の名誉職を与えてくれたので物質面の心配もいらなかった。彼はめったに負けなかったので著書の『チェスの基本』にはそれまでの敗局の「すべて」、全部で8局、を載せることができた。ラスカーの類まれな棋歴にもかかわらずカパブランカがタイトル奪取の大本命だった。もしチャンピオンの試合への取り組みが一般に知れ渡っていたらなおさらそうだったに違いない。ラスカーは頑固な人間で一度タイトルを放棄しカパブランカに譲っていたので明らかに番勝負を単なる儀式とみなしていた。親友のオシップ・ベルンシュタインはハバナへ向かう少し前のラスカーと交わした会話をずっと後になってこう記している。

 「試合に備えて何か準備したか」
 「いや」
 「休息を取ったか」
 「いや」
 「少なくとも航海中にチェスを研究するために盤駒を持って行くだろうな」
 「いや」
 「自分の指す定跡の見直しとカパブランカの試合の研究はしたんだろうな」
 「いや」
 「それじゃ気違い沙汰だ」と私は言った。返事はなかった。
 [オシップ・ベルンシュタイン『ラスカーとの出会い』チェスレビュー1955年5月号]

(この章続く)

2009年11月04日

チェス世界選手権争奪史(80)

第4章 ホセ・ラウル・カパブランカ(続き)

 付け加えればカパブランカも特に準備しなかった。何となれば彼は一度もそういうことをしたことがなかった(マスターの棋力になるまでチェスの本を開いたことがないことが彼の自慢の種だった)。それにそもそも他のいくつかの有利な点があった。対局地は自分の地元だった。そこではチェス愛好家たちが彼を崇拝し彼の慣れた気候だった。それに年も20歳若かった。それでもラスカーの出だしは上々で最初の4局は優勢だったが全部引き分けに終わった。その後の第5局で不運に見舞われた。

クイーン翼ギャンビット拒否
白 カパブランカ
黒 ラスカー

1.d4 d5 2.Nf3 Nf6 3.c4 e6 4.Bg5 Nbd7 5.e3 Be7 6.Nc3 O-O 7.Rc1

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7...b6

 対局当時この手は既にいくらか旧式になっていて 7...c6 に人気を奪われていた。そのあとの通常の手順は 8.Bd3 dxc4 9.Bxc4 Nd5 10.Bxe7 Qxe7 11.O-O Nxc3 12.Rxc3 e5!
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で、この解放の捌きはカパブランカによるものである。

8.cxd5 exd5

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9.Qa4

 この番勝負の第1局でカパブランカは 9.Bb5 と指した。しかし 9...Bb7 10.Qa4 a6 11.Bxd7 Nxd7 12.Bxe7 Qxe7 13.Qb3 Qd6!
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となって優勢になれなかった。最善手はたぶん 9.Bd3 で実戦例は 9...Bb7 10.O-O c5 11.Qe2 c4 12.Bb1 a6 13.Ne5 b5 14.f4 +/-
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である(ビドマール対イェーツ、ロンドン、1922年)。

9...c5

 カパブランカが1914年モスクワでの対ベルンシュタイン戦でこの局面の黒番を持った時は 9...Bb7 と指し、以下 10.Ba6 Bxa6 11.Qxa6 c5 12.Bxf6 Nxf6 13.dxc5 bxc5 14.O-O Qb6 15.Qe2
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と進んだ時 15...c4 で黒も指せる局面になった。本譜の手はポーンを犠牲にする。

10.Qc6 Rb8 11.Nxd5

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11...Bb7

 11...Nxd5 は 12.Qxd5 Bb7 13.Bxe7 Qxe7 14.Qg5 Qxg5 15.Nxg5 cxd4
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となって恐らく黒にポーン損の十分な代償がある。

12.Nxe7+ Qxe7 13.Qa4

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13...Rbc8

 ここで 13...Bxf3 14.gxf3 cxd4 15.Qxd4 Ne5 16.Be2 Rbd8 17.Qf4 Rd6
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と指していたら黒は反撃に期待が持てただろう。本譜の手は思わぬ逆(さか)ねじを食らわされた。

14.Qa3! Qe6 15.Bxf6! Qxf6 16.Ba6!

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16...Bxf3

 16...cxd4 は 17.Rxc8 Rxc8 18.O-O で白がはっきりとポーン得になる。

17.Bxc8 Rxc8 18.gxf3 Qxf3 19.Rg1 Re8 20.Qd3 g6

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21.Kf1 Re4 22.Qd1 Qh3+ 23.Rg2 Nf6 24.Kg1 cxd4

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25.Rc4!

 25...Rg4 には 26.Rc8+ Kg7 27.Rxg4 +/- の意図である。

25...dxe3 26.Rxe4 Nxe4 27.Qd8+ Kg7 28.Qd4+ Nf6 29.fxe3 Qe6 30.Rf2 g5 31.h4

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31...gxh4?

 31...Kg6 の方が良い受けで 32.hxg5 Ne4 33.Qd3 Qg4+ 34.Rg2 Qh4 35.Qb1 Kg7
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でポーンが取り返せて、引き分けに通じる反撃も保持している。しかし本譜の手でも白は容易でない。

31.Qxh4 Ng4 32.Qg5+ Kf8 Rf5

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34...h5

 34...Qxe3+ は 35.Qxe3 Nxe3 36.Rf2 で白の楽勝になる。

35.Qd8+ Kg7 36.Qg5+ Kf8 37.Qd8+ Kg7 38.Qg5+ Kf8 39.b3 Qd6

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40.Qf4 Qd1+ 41.Qf1 Qd7 42.Rxh5 Nxe3 43.Qf3 Qd4 44.Qa8+ Ke7 45.Qb7+

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45...Kf8?

 これは敗着となるポカだった。45...Ke6 か 45...Kf6 なら黒は致命的なクイーン交換を避けられた。実戦はルーク対ナイトの収局になって絶望的である。

46.Qb8+ 黒投了

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(この章続く)

2009年11月05日

チェス世界選手権争奪史(81)

第4章 ホセ・ラウル・カパブランカ(続き)

 このつまづきにもかかわらずラスカーがひるんだ気配はみじんもなかった。そして次の4局は引き分けだった。第10局でラスカーは序盤から優勢になって16手目のあと次の局面になった。

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 ラスカーはここで 17.Bxd5 と指したが優勢になれなかった。カパブランカの番勝負中負ける危険性は全然なかったという豪語に触発されて後に広範な研究が行なわれたが 17.Bxf6 でも白に勝ちはないことが明らかにされた。もっとも黒の受けは次のように非常に難しい。17.Bxf6 Nxf6 18.Ng6! Rfe8(18...fxg6 19.Rxe6 Bc4 20.Rxe7 +/-)19.Rxe6! fxe6 20.Bxe6+ Kh7 21.Nf8+ Kh8 22.Qh7+! Nxh7 23.Ng6#
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だから黒は 17...Bxf6 と取らなければいけないが 18.Bxd5 exd5 19.Qf5 のあと 19...Bc6
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で受け切れる局面である(20.Ng4 Bg5 21.f4 g6!)。本局の総譜は次のとおりである。

クイーン翼ギャンビット拒否
白 ラスカー
黒 カパブランカ

1.d4 d5 2.c4 e6 3.Nc3 Nf6 4.Bg5 Be7 5.e3 O-O

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6.Nf3 Nbd7 7.Qc2 c5 8.Rd1 Qa5 9.Bd3 h6 10.Bh4 cxd4

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11.exd4 dxc4 12.Bxc4 Nb6 13.Bb3 Bd7 14.O-O Rac8

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15.Ne5(15.Qe2!)15...Bb5! 16.Rfe1 Nbd5 17.Bxd5 Nxd5 18.Bxe7 Nxe7 19.Qb3 Bc6 20.Nxc6 bxc6 =

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21.Re5 Qb6 22.Qc2 Rfd8 23.Ne2(23.Na4!)23...Rd5 24.Rxd5 cxd5 25.Qd2 Nf5

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26.b3(26.g3!)26...h5 27.h3?(27.Ng3! または 27.g3!)27...h4! -/+ 28.Qd3 Rc6 29.Kf1 g6 30.Qb1 Qb4

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31.Kg1 a5! 32.Qb2 a4 33.Qd2 Qxd2 34.Rxd2 axb3 35.axb3 Rb6

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36.Rd3 Ra6 37.g4 hxg3e.p. 38.fxg3 Ra2 39.Nc3 Rc2 40.Nd1 Ne7

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41.Ne3 Rc1+ 42.Kf2 Nc6 43.Nd1

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43...Rb1(43...Nb4 44.Rd2 Rb1 45.Nb2 Rxb2 46.Rxb2 Nd3+ 47.Ke2 Nxb2 48.Kd2 =)44.Ke2? Rxb3 45.Ke3 Rb4 46.Nc3 Ne7 47.Ne2 Nf5+ 48.Kf2 g5

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49.g4 Nd6 50.Ng1 Ne4+ 51.Kf1 Rb1+ 52.Kg2 Rb2+ 53.Kf1 Rf2+

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54.Ke1 Ra2 55.Kf1 Kg7 56.Re3 Kg6 57.Rd3 f6 58.Re3 Kf7

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59.Rd3 Ke7 60.Re3 Kd6 61.Rd3 Rf2+ 62.Ke1 Rg2 63.Kf1 Ra2

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64.Re3 e5 65.Rd3 exd4 66.Rxd4 Kc5 67.Rd1 d4 68.Rc1+ Kd5 白投了

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(この章続く)

2009年11月06日

チェス世界選手権争奪史(82)

第4章 ホセ・ラウル・カパブランカ(続き)

 (1911年サンセバスティアン大会での自分の試合の評価についてカパブランカは次のように書いていた。「収局の腕前は最高の水準に達していた。それまで並ぶ者がいないと評されていたラスカー自身よりも私の方が上であると言う選手もいたが、上回ってはおらずちょうど同じだったと思う。」)

 気落ちし慣れない気候にも悩まされていたに違いないラスカーは抵抗する気持ちも萎えてしまった。第11局は成すところなく負け、第12局と第13局は引き分けたが第14局ではとんでもないポカを出してしまった。

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この局面でラスカーは 29.Kh2? と指し 29...Ng4+ から 30...Ne5 で簡単に交換損になってしまった。対局終了後ラスカーは主催者に近づき、体調不良により番勝負を放棄することを認めて欲しいと申し入れた。この要請は拒否するわけにはいかなかった。それで10年間待った末の番勝負の結果カパブランカがついに世界選手権者になった。口さがない大衆の中には「信じられないほどつまらない」と思った者もいた。新選手権者は後年にチェス全般について同じような意見を表明した。

(この章続く)

2009年11月07日

チェス世界選手権争奪史(83)

第4章 ホセ・ラウル・カパブランカ(続き)

 ほとんどのチェス愛好家にとって1920年代前半は退屈以外の何物でもないように思われたに違いない。実際は大違いで、チェスの考え方に一種の革命が起きていたことが広く感じられる。一群の新世代のマスターたちが第一次世界大戦後登場していて、シュタイニッツとタラシュがずっと以前に勝利に不可欠と断言した棋理に合った布局の指し方の原則すべてに背いているように見えた。振り返って見れば、彼らの教義の最も明快な解説である『チェスの現代思想』を書いた一番巧みな主唱者のリハルト・レーティの著作を通してこれらの「超現代派」(50年後の今では変な用語に見える)は驚くほど短い期間に今日我々が知っているようにチェスになくてはならない多くの考え方を確かに創案した。そして彼らの出現は明らかにチェスの発展において転換点を成した。これはもちろん真実の部分もあるが、関係者たち自身によるのと同じくらい時代の状況によって助長された幻想の部分もある。

 ジークベルト・タラシュがシュタイニッツの教えの普及に乗り出した(即ち広く流布しようとした)とき彼は真の天才的な教育のやり方でそれを行なった。それは主として単純化の天才と言うべきものである。彼は一般的な原則を明解な表現による命令という形で教え込んだ。つまり「ビショップより先にナイトを展開せよ、序盤で同じ駒を二度動かすな」など精選された例によって例示したのである。彼の影響力はコントラクトブリッジのチャールズ・ゴーレンとほとんど同じだった。ゴーレンは熟達者の手札評価方法をいくつかの簡単な規則に変換した点数制を普及させたという意味で同じだった。両者の結果は同様だった。以前より多くの人たちがそれぞれの競技を理解し易くなり楽しんで行なうようになった。そのやり方が作り出した愛好者たちを利用して生活の糧を得る人たちが受けた恩恵は数え切れないほどである。しかし彼らの教え方は本質的に教条主義の傾向を持ち込むことにもなった。二人ともある程度「理屈を規則で置き換えることによって」大衆を教化した。そしてある段階を越えて上達するためにはどちらの競技も規則の背後にある理屈を見抜くことが必要である。

(この章続く)

2009年11月08日

チェス世界選手権争奪史(84)

第4章 ホセ・ラウル・カパブランカ(続き)

 レーティ、アーロン・ニムゾビッチ、エフィム・ボゴリュボフ、ギュラ・ブレーヤーらの超現代派は原則に対する明らかな例外を探すことを企てた。彼らが最も問題があると見た原則は中原ポーンに適用された原則だった。タラシュにとって布局の主要な目的は中央列のポーンを突いて中原を支配することだった。そして超現代派は駒の調和のとれた展開によって中原の支配を達成する方法に専心した。もちろんこれは簡略化のしすぎであるが新しい動きの最も目に見える成果は中央列のポーン突きを長い間遅らせるいくつかの布局定跡の流行だった。

 新機軸のうちのいくつかは第一次世界大戦の前から既に現れ始めていた(いくつかはツーカートルトとチゴーリンまでさかのぼる)。しかし国際大会が4年間まったく中止になっていたので、少しずつ移り変わったかもしれないものが突発的な形で起こった。新人類たちは当然革命的な考え方を推し進めるために全力を尽くした。そしてタラシュを筆頭とする守旧派たちも若手がしでかしていることを理解しないように装うことによって自分たちの役割を務め、当然のことながら見事に負かされることがあった。

 このような状況において世界チャンピオンと彼の未来の挑戦者のアレクサンドル・アリョーヒンの立場はチェスの現代史の何人かの著者が示唆したほど鮮明ではなかった。カパブランカはチェスの本をひも解く前から強豪選手だったので明らかにタラシュの教条主義とは無縁だった。そして主として大会中に他の選手が指すのを見て布局の特定の戦法の知識を得ていたので、自分の考え方に適切な変更を施すのに苦労はなかった。アリョーヒンも超現代派のみならず誰からでも自分が価値があると思ったことなら何でも吸収していた。彼の主要な強みは二つあった。それは手筋と攻撃全般の類まれな才能と、前例のない布局の組織的な研究に費やしてきた飽くことを知らないようなエネルギーだった。例えばビルガーの『チェス選手の手引き』のページにざっと目をとおすことが明示するようにもちろんこれまでも布局を詳細に研究する選手はいたが、アリョーヒンは情熱を傾けて綿密な改良点を探すことを実行していた。彼はもうじき労苦の正当な報酬を受けることになった。

(この章続く)

2009年11月09日

チェス世界選手権争奪史(85)

第4章 ホセ・ラウル・カパブランカ(続き)

 新チャンピオンとしての初めての大会参加は1922年夏のロンドンで、2位のアリョーヒンに1½点差をつけもちろん無敗で優勝した。将来の世界選手権戦を取り仕切るための新しい一式の規定が策定されたのはこの大会の参加者による会合でだった。それはチャンピオンがほとんど無期限に挑戦候補との対戦を遅らせることのできる現状に対する広範な不満の表れだった。このいわゆるロンドン協定(実際には策定した者たちの間での合意に基づいていただけ)は国際的に認められたマスターの挑戦を受けたら1年以内に対戦しなければならないと規定していた。挑戦者は1万ドル以上の拠出金を集めることのできた者で、その20%はタイトル保持者のための謝礼金で、残りの8千ドルは番勝負の勝者と敗者の間で分けられ勝者の取り分は60%だった。他の条項は挑戦が認められたら挑戦者は500ドルを信義の保証金として預託し、試合開始の三ヶ月まえにはさらに500ドルを預けなければならないと規定していた。一方チャンピオンが対局忌避または予定通りに対局することが不可能になった場合はタイトルは挑戦者に移動することが明記されていた。

 ロンドン協定は番勝負の本質的な詳細も含んでいた。勝者は引き分けを数えずに最初に6勝をあげた者で、試合数に制限は設けていなかった。この試合数の省略は1927年のカパブランカ対アリョーヒン戦の主催者が悔やむことになった原因だった。過去には不一致の原因ともなった持ち時間は最初の40手につき2時間30分だった。

 国際チェス連盟(FIDE)の創立にはまだ2年あった。FIDEは1924年にパリで設立されたがこの国際チェスを統括する機関が世界選手権を管理する機会を得ることができたのは26年もたってからのことだった。1928年のハーグ総会でようやくFIDEはロンドン協定を認可し、アリョーヒン対カパブランカの計画されていた再戦に既に死文化していたその協定を適用したにすぎなかった。

(この章続く)

2009年11月10日

チェス世界選手権争奪史(86)

第4章 ホセ・ラウル・カパブランカ(続き)

 このような手続き上の詳細よりもずっと興味深いのは誰が次の挑戦者になるのかということだった。最も有力な候補はルビーンシュタインだった。第一次世界大戦前の彼の戦績はタイトル挑戦の価値があった。そこでカパブランカは彼と漠然とした交渉に入った。しかしルビーンシュタインは依然として必要な資金を集めることができないでいた。それでこの件はすぐに打ち切られた。これは劇的にロンドン協定への最も深刻な異議を浮かび上がらせた。つまり資金集めの才能がない挑戦者は他の点でどんなに優れていても挑戦の機会がないのである。しかしルビーンシュタインの倫理的な挑戦の権利は彼の棋力の下降によって急速にあいまいになった。1922年ウィーンでの優勝を最後に何年か優勝から遠ざかった。1923年春のカールスバートでの大きな大会ではアリョーヒン、ボゴリュボフそれにマローツィの三人が同点優勝しルビーンシュタインは参加18人中12位だった。1923年の夏にラスカーがメーリッシュ=オストラウの大会で実戦復帰し大差で優勝した。もし彼が世界選手権への再戦を望めばほとんど拒否できなかった。

 アリョーヒンは1923年11月にカパブランカへの挑戦への資金援助を募るため米国へ渡りすぐに成功した。ほぼ同時期にニューヨークでの華やかな大会の資金も集まった。この大会は1924年3月から4月にかけて参加者11人による2回総当たりで行なわれ、間違いなくチェス史上最強の大会の一つとなった。世界チャンピオンは出だしからもたつき初戦から4局連続引き分けだった。そして第5局ではレーティに負けて(ほぼ10年ぶりの敗戦)大きな話題となった。その後は急速に巻き返したが老齢のラスカーを追い抜くことはできなかった。ラスカーは自分の棋歴でいくつかの最高のチェスを指しカパブランカに1½点差、3位のアリョーヒンに4点差をつけて優勝した。

 しかし事態は1925年11月にエフィム・ボゴリュボフが2位のラスカーと3位のカパブランカを押さえてモスクワでの大きな大会に優勝したとき一層混迷を深めた。この大会の終了時にラスカーはカパブランカ、アリョーヒン、ボゴリュボフおよび彼自身の間で1895-96年のサンクトペテルブルク大会の方式に沿って番勝負競技会を行なうのが選手権問題を解決する最良の方策かもしれないと持ちかけた。彼がその大会を選手権戦そのものと意図していたのかそれともただ次期挑戦者を選出するものと意図していたのかは明らかでないが、彼の提案はほとんど歓迎されずすぐに立ち消えになった。

(この章続く)

2009年11月11日

チェス世界選手権争奪史(87)

第4章 ホセ・ラウル・カパブランカ(続き)

 1926年には新たに2選手が選手権戦への資格を主張した。ゼメリングの大会でオーストリアのルドルフ・シュピールマンがアリョーヒンを抑えて優勝した。そしてドレスデンの大会ではアーロン・ニムゾビッチがアリョーヒンとルビーンシュタインを抑えて優勝した。ドレスデンの大会の後ニムゾビッチはカパブランカへ正式な挑戦状を送った。

 この間にニューヨークでは1924年の大会主催者と同じグループがカパブランカへの次期挑戦者を見つける独自の計画に奔走していた。彼らは世界チャンピオンを含む6選手による番勝負競技会を提案していた。優勝者が、カパブランカが優勝した場合は準優勝者が、今や延び延びになっていたカパブランカのタイトル防衛の対戦相手として正式に認定されるものとしていた。これはまだ計画段階だったがブエノスアイレスのアルゼンチン・チェスクラブは1927年のいつか行なうカパブランカ対アリョーヒン戦の賞金として1万ドルを拠出することを発表した。しかしばかげた交渉事全般とは一線を画してずっと無関心を装っていたようなカパブランカは、アリョーヒンが1924年の挑戦をロンドン協定(まだ覚えている?)で要求されていた違約金の供託によって続行しなかったとして、ニムゾビッチに優先権があり1927年1月1日まで指定の500ドルの供託を許可することを考えていると回答した。ニムゾビッチがなぜ指定されたとおりにしなかったのかは不明だが1927年の元旦が来て過ぎていき、それと共にニムゾビッチの権利もなくなった。もちろんアリョーヒンはすぐに挑戦を再開し明らかに今回はカパブランカの不興を買わないように違約金についての規約に従った。

 ニューヨークでの競技会の取り決めが一般に公表されるにつれ主催者は事業の大きなへまをしていたことがますます明らかとなった。彼らはレーティとボゴリュボフを招待することを全く忘れていた。それにまだ多くの人によってタイトル戦への第1候補と目されていたラスカーへの招待状が郵便で迷子になった。ニューヨークの連中はラスカーを招待したが締切まで彼から返事が来なかったので代わりの招待状を送ったと主張した。一方ラスカーの伝記執筆者は1924年当時の不和が原因で彼らはラスカーを除外することにしていて、「かなりの大衆の声」に応じて土壇場になって前チャンピオンに招待状を送ったに過ぎないと言っている。その声はもちろん減少していった。ラスカーはこの事態にむっとし、カパブランカとの再戦を引き起こす手段をチェス界全般が提供できなかったことにむっとし、事実上実戦から引退した。復帰したのは経済的な必要性でそうせざるを得なくなった1934年だった。

(この章続く)

2009年11月12日

チェス世界選手権争奪史(88)

第4章 ホセ・ラウル・カパブランカ(続き)

 大会それ自体も秩序正しさの模範から外れていた。カパブランカは絶好調だった。早くも第3回戦で首位に立ち一時ニムゾビッチに並ばれただけで最後まで首位を走った。第4巡目(4回総当たりだった)の初めでマーシャルを破って優勝を確定したあとで以降の4選手とは引き分けを受諾する用意があると表明した。あいにく次の3局で彼は最善の努力をしたにもかかわらず、シュピールマン戦ではわずかな有利、ビドマール戦では優勢、ニムゾビッチ戦では勝勢というように程度の異なる優位を得た。そしてシュピールマン戦とビドマール戦では優勢な局面でさっさと引き分けにした。しかしニムゾビッチ戦では愚行の頂点に達した。カパブランカは大会運営者を通してこの対戦相手(?)に良い手を指してくれないと世界のほとんどの期待と異なり自分が勝つことが避けられなくなるというメッセージを送らなければならなかった。最終戦のアリョーヒンとだけは事が円滑に運んだ。両者は26手で文句のつけようのない引き分けに合意した。そしてこのささやかな行為が非常に気に入ったようで二人はブエノスアイレスでの番勝負では何回もそういうことに及んだ。

 アリョーヒンはこのニューヨークでの大会で準優勝し、チャンピオンとは2½点差の健闘で3位のニムゾビッチにはなんとか1点差をつけた。カパブランカはこの大会より前にアリョーヒンと番勝負を行なうことに合意していたようでアルゼンチン・チェスクラブからの主催の申し出を承諾していた。だからもし予定の挑戦者が2位になれなかったら明らかに具合の悪いことになっていた。アリョーヒンは既に1926年にオランダの若い選手のマックス・エーべとの練習試合でわずか1点差で辛勝して評判を損ねていた。だからタイトル挑戦にふさわしいことを証明するためにこの大会で好成績が必要だった。しかしカパブランカのニューヨーク大会での勝ち点の差は両者の実力の開きを示していたに違いない。そしてカパブランカのこれまでのアリョーヒンとの対戦成績も5勝無敗7分で挑戦者にとってほとんど良い兆候でなかった。

(この章続く)

2009年11月13日

チェス世界選手権争奪史(89)

第4章 ホセ・ラウル・カパブランカ(続き)

 アレクサンドル・アレクサンドロビッチ・アリョーヒンは1892年11月1日[訳注 10月31日、10月19日と書いている本もあります]にモスクワで生まれた。両親は貴族で、ロシア貴族階級の中でも悪名高い方だったようである。父はモンテカルロで一夜で2百万ルーブルを損したことがあるといううわさだった。アリョーヒンは10歳頃に母からチェスを教わりすぐにそれにはまり熱中した。彼の上達は急速だった。郵便チェスを数多く指した後1907年に最初の対面対戦の大会に参加した。1909年までにはサンクトペテルブルクでの全ロシアアマチュア大会に優勝し名だたるマスターになっていた。第一次世界大戦前の年まで小さな国際大会で好成績をあげていた。そしてマンハイムでの自身最大の大会に向かっている途中で銃撃が始まった。彼と他のロシア人選手はドイツ政府によって敵国市民として抑留された。それからの2、3年の生活はほとんど確証のないうわさばかりである。どうにかドイツから逃げ出しロシアへ戻ってロシア軍に入隊した。そして勇敢に戦い二度負傷し二度勲章を授けられた。さらに1918年のロシア革命では危うく命を落とすところだった。彼と家族はもちろん全財産を失い、チェス選手として有名だったのでなんとか命が助かったと自身で記している。以降のソ連からの脱出はロマンスにも包まれている。最初の妻との結婚は明らかに意図的なものだったそうだが詳細は不明である。いずれにしても1921年にオーストリアのトライベルクでの参加を認められ、その後ロシアに戻る代わりにパリへ行きそこでチェスのプロとして新しい人生のスタートをきった。それからの何年かは最も活動的な選手となり1921年から27年の間に何十もの大会に参加しほとんどで好成績を収めた。時間を見つけてソルボンヌ大学から法学博士の学位も取った。

 1923年にはアリョーヒンは早くもカパブランカとの番勝負のために入念な準備を始めていた。チャンピオンの試合は前例のないほど徹底的に研究した(著書の『世界選手権への道』は大部分がこの時行なった準備の自身による記述である)。これに対してカパブランカは番勝負の準備は何もしなかった。それはしたことがないことによることも大きいが、アリョーヒンとのこれまでの対戦成績がほとんど必要性を感じさせなかったことも間違いなかった。この番勝負自体はロンドン協定(先に6勝した方の勝ち)に沿って行なわれた唯一のもので1927年9月16日から始まった。

(この章続く)

2009年11月14日

チェス世界選手権争奪史(90)

第4章 ホセ・ラウル・カパブランカ(続き)

 初戦でカパブランカは 1.e4 と指してすべての人をびっくりさせた(この番勝負でこの無謀な手を指したのはこの時だけだった)。アリョーヒンはフランス防御で応じ次のように進んだ。1.e4 e6 2.d4 d5 3.Nc3 Bb4 4.exd5 exd5 5.Bd3 Nc6 6.Nge2 Nge7 7.O-O Bf5 =
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8.Bxf5 Nxf5 9.Qd3 Qd7 10.Nd1(10.Bf4!)10...O-O 11.Ne3 Nxe3 12.Bxe3 Rfe8
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13.Nf4(13.Bf4! =)13...Bd6! 14.Rfe1(14.c3!)14...Nb4 15.Qb3?(15.Qd2 -/+)15...Qf5 16.Rac1?(16.Nd3 Nxd3 17.Qxd3 Qxd3 18.cxd3 Bb4 -/+)
YFMF090C.JPG
ここでアリョーヒンは軽妙な手筋の 16...Nxc2! 17.Rxc2 Qxf4 でポーンを得しそのまま押し切った(カパブランカは43手で投了した)。

(この章続く)

2009年11月15日

チェス世界選手権争奪史(91)

第4章 ホセ・ラウル・カパブランカ(続き)

 第2局は短手数(19手)の引き分けで、そのような多数の最初だった。しかし第3局でカパブランカは彼の信奉者たちが期待するようになった類の試合で相手を寄せ付けなかった。

クイーン翼インディアン防御
白 カパブランカ
黒 アリョーヒン

1.d4 Nf6 2.Nf3 b6 3.g3 Bb7 4.Bg2 c5 5.O-O cxd4
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6.Nxd4 Bxg2 7.Kxg2 d5 8.c4 e6 9.Qa4+ Qd7 10.Nb5 Nc6
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11.cxd5 exd5 12.Bf4 Rc8 13.Rc1 Bc5 14.b4 Bxb4 15.Rxc6 Rxc6
YFMF091C.JPG
16.Qxb4 Ne4 17.Nd2 Nxd2 18.Qxd2 O-O 19.Rd1 Rc5 20.Nd4 Re8
YFMF091D.JPG
21.Nb3 Rcc8 22.e3 Qa4 23.Qxd5 Rc2 24.Rd2 Rxa2 25.Rxa2 Qxa2
YFMF091E.JPG
26.Qc6 Rf8 27.Nd4 Kh8 28.Be5 f6 29.Ne6 Rg8 30.Bd4 h6
YFMF091F.JPG
31.h4 Qb1 32.Nxg7 Qg6 33.h5 Qf7 34.Nf5 Kh7 35.Qe4 Re8
YFMF091G.JPG
36.Qf4 Qf8 37.Nd6 Re7 38.Bxf6 Qa8+ 39.e4 Rg7 40.Bxg7 Kxg7 41.Nf5+ Kf7 42.Qc7+ 黒投了
YFMF091H.JPG

(この章続く)

2009年11月16日

チェス世界選手権争奪史(92)

第4章 ホセ・ラウル・カパブランカ(続き)

 そのあとの3局は激闘の末の引き分けだった。そして第7局はカパブランカがきれいな勝ちを収めて先行した。その勝利ですべてがまた順調にいっているように感じたに違いない。

クイーン翼ギャンビット拒否
白 カパブランカ
黒 アリョーヒン

1.d4 d5 2.c4 e6 3.Nc3 Nf6 4.Bg5 Nbd7 5.e3 c6

YFMF092A.JPG

6.Nf3

 両選手ともこの番勝負の白番でケンブリッジスプリングズ防御を避けるために他の6手目を試みた。しかし 6.Qc2、6.Bd3、6.a3 のどれもうまくいかなかった。第32局でアリョーヒンは 6.cxd5(交換戦法)に変えて見事な勝利を飾った。

6...Qa5

 この手がケンブリッジスプリングズ防御の特徴で、その地で1904年にマーシャルが快勝したことにちなんで名付けられた。アリョーヒンはこの番勝負でこの防御を3回採用し3局とも申し分のない局面になった。しかし2局目に勝っただけで他の2局は負けた。

7.Nd2 Bb4 8.Qc2

YFMF092B.JPG

8...O-O

 第11局と第29局では 8...dxc4 9.Bxf6 Nxf6 10.Nxc4 Qc7 11.a3 Be7 = と進んだ。

9.Bh4

 これは新機軸の手だった。当時の普通の手は 9.Be2 だったが 9...e5 10.O-O Bd6 11.Nb3 Qc7 で黒が有望である。

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9...c5

 この手はのちに批判されたが何も悪いところはない。他の手のうち 9...Ne4 は良くない。例えば 10.Ndxe4 dxe4 11.Be2 e5 12.O-O exd4 13.Nxe4 f5 14.a3 +/-
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(カシュダン対マーシャル、ニューヨーク、1932年)また 9...e5 は疑問のポーン捨てである。10.dxe5 Ne4 11.Ndxe4 dxe4 12.e6! Ne5 13.exf7+ Rxf7 14.O-O-O!
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黒の代償ははっきりしない。

10.Nb3 Qa4 11.Bxf6 Nxf6 12.dxc5

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12...Ne4?

 アリョーヒンはこの手に1時間以上をかけた。そしてあとでひどい時間不足に陥った。さらに悪いことにはこの手は良くない手だった。彼自身のちに次の手順を推奨していた。12...Bxc3+ 13.Qxc3 Ne4 14.Qa5 Qxa5 15.Nxa5 Nxc5 16.cxd5 exd5
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これで白はそれほど有利でない。

13.cxd5 Bxc3+ 14.bxc3 Nxc5 15.Rd1! exd5 16.Rxd5

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16...Nxb3

 ロシア生まれのマスターのスルタンベイエフは研究の結果ここで 16...b6 を推奨し以下 17.Rd4 Qc6 18.Nxc5 bxc5 19.Rh4 f5 20.Bc4+ Kh8 21.O-O Bb7 22.f3 Rad8
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で、「白のルークが場違いな所にいるので」黒に反撃のチャンスがあるとしている。この手順が完全に信頼できるかどうかはともかく本譜は明らかに黒が何の代償もなく完全なポーン損になっている。

17.axb3 Qc6 18.Rd4 Re8 19.Bd3!

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 この手はポーンを返す代わりに黒キングに対する攻勢を強める意図である。

19...Qxg2 20.Bxh7+ Kf8

 20...Kh8 は 21.Be4 Qh3 22.Rg1 となり 22...Qxh2 と取ることができない。

21.Be4 Qh3 22.Qd2 Be6 23.c4 a5 24.Rg1 Qxh2

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 黒は戦力を回復できなければ投了に等しい。

25.Rh1 Qc7 26.Qb2!

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 この手は 27.Qa3+ Kg8 28.Bh7+ Kh8 29.Rdh4 からの詰みを狙っている。

26...Qc5 27.Bd5 Ra6 28.Re4

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28...Rd6

 gポーンは助からない。28...f6 なら 29.Rh8+ で駒損になる。28...g6 は 29.Qf6 で詰まされる[訳注 29...Qb4+ からクイーンを素抜かれるので正着は 29.Rh8+ Ke7 30.Bxe6 です]。

29.Rh7 Ke7

 代わりに 29...g6 は 30.Qg7+ Ke7 31.Qxf7+ である。

30.Qxg7 Kd8

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31.Bxe6 fxe6 32.Qxb7 Qb4+ 33.Qxb4 axb4 34.c5 Rc6 35.Rxb4 Rxc5 36.Ra7 黒投了

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 36...Rc8 なら 37.Rd4# である。

(この章続く)

2009年11月17日

チェス世界選手権争奪史(93)

第4章 ホセ・ラウル・カパブランカ(続き)

 その後の3局は引き分けに終わってカパブランカのリードが続いた。第11局はアリョーヒンが言ったように「まったくばかげたできごと」で、格言にある最後から2番目の悪手を出したのは挑戦者の方だった[訳注 『勝者とは最後から2番目に間違いを犯した選手である』]。

クイーン翼ギャンビット拒否
白 カパブランカ
黒 アリョーヒン

1.d4 d5 2.c4 e6 3.Nc3 Nf6 4.Bg5 Nbd7 5.e3 c6 6.Nf3 Qa5 7.Nd2 Bb4 8.Qc2
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8...dxc4(8...O-O は前回の第7局を参照。)9.Bxf6 Nxf6 10.Nxc4 Qc7 11.a3 Be7
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12.Be2(第29局でカパブランカはここで 12.g3 と指した。そして 12...O-O 13.Bg2 Bd7 14.b4! と進んで白が少し優勢になった。)12...O-O 13.O-O Bd7 14.b4 b6 15.Bf3! Rac8 16.Rfd1 Rfd8 17.Rac1 Be8
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18.g3 Nd5 19.Nb2 Qb8 20.Nd3 Bg5 21.Rb1 Qb7 22.e4 Nxc3 23.Qxc3
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23...Qe7(?)(23...Rc7! 24.Bg2 Bf6 25.e5 Be7 26.Rbc1 Qc8 =)24.h4! Bh6 25.Ne5 g6 26.Ng4(?)(26.Nc4!)26...Bg7 27.e5 h5 28.Ne3 c5! 29.bxc5 bxc5
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30.d5?!(30.Rb7 Rd7 31.Rxd7 Bxd7 32.d5 exd5 33.Nxd5 Qe6 34.Nf4 =)30...exd5 31.Nxd5 Qe6(31...Qxe5?? 32.Qxe5 Bxe5 33.Ne7+ +/-)32.Nf6+(?)(32.Rb7 Bxe5 33.Qa5 Kg7 34.Rxa7 +/=)32...Bxf6 33.exf6 Rxd1+ 34.Rxd1 Bc6! 35.Re1 Qf5 36.Re3 c4! 37.a4
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37...a5(37...Bxa4? 38.Be4 Qg4 39.Bf3 Qd7 40.Re7 Qd3 41.Qxd3 cxd3 42.Rxa7 =)38.Bg2 Bxg2 39.Kxg2 Qd5+ 40.Kh2 Qf5 41.Rf3 Qc5 42.Rf4
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42...Kh7(42...Qb6!)43.Rd4 Qc6?(43...Qb6!)44.Qxa5 c3 45.Qa7!
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45...Kg8(アリョーヒンの研究によれば黒は他に良い手がない。Ⅰ45...Qxf6 46.Rf4 Qxf4 47.gxf4 c2 48.Qxf7+ Kh6 49.f5! =[訳注 実際は +- なので黒は 48...Kh8 = が正着] Ⅱ45...Qc7 46.Qxc7 Rxc7 47.Rd1 = Ⅲ45...Rc7 46.Qb8 c2 47.Rd8 Qxf6! 48.Rh8+!! Qxh8 49.Qxc7 =)46.Qe7 Qb6
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47.Qd7?(47.Rd7! Qxf2+ 48.Kh1! Qa2 49.Rd8+ Rxd8 50.Qxd8+ Kh7 51.Qf8 これで黒は永久チェックをかけるしかない。)47...Qc5 48.Re4 Qxf2+ 49.Kh3 Qf1+ 50.Kh2 Qf2+ 51.Kh3 Rf8 52.Qc6 Qf1+
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53.Kh2 Qf2+ 54.Kh3 Qf1+ 55.Kh2 Kh7! 56.Qc4 Qf2+ 57.Kh3 Qg1! 58.Re2
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58...Qf1+?(58...Qh1+! 59.Rh2 Qf3! -/+)59.Kh2 Qxf6
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60.a5?(60.Rc2 Re8 61.Kg2! 狙いは 62.Rxc3 と 62.Rf2 =)60...Rd8?(60...Qf1)61.a6?(61.Kg2)61...Qf1! 62.Qe4 Rd2 63.Rxd2 cxd2 64.a7 d1=Q 65.a8=Q Qg1+ 66.Kh3 Qdf1+ 白投了
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(この章続く)

2009年11月18日

チェス世界選手権争奪史(94)

第4章 ホセ・ラウル・カパブランカ(続き)

 この試合は勝負の転換点となった。明らかに気落ちしたカパブランカは第12局でひどいチェスを指し3-2で再びリードを許しずっと続くことになった。次の試合からは8局連続(!)で引き分けでほとんどは30手未満だった。同じ戦型が何度も現れスポーツの観点から最も好ましくない一面だった。第17局と第20局は例外だったが勝負はつかなかった。そしてむかえた第21局は・・・

クイーン翼ギャンビット拒否
白 カパブランカ
黒 アリョーヒン

1.d4 d5 2.c4 e6 3.Nc3 Nf6 4.Bg5 Nbd7 5.e3 Be7 6.Nf3 O-O 7.Rc1 a6

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 アリョーヒンはこの手を計8局指し結果は1勝(本局)7分だった。

8.a3

 第23局でカパブランカは最善の応手の 8.cxd5 を見つけた。以下は 8...exd5 9.Bd3 c6 10.O-O Ne8 = で引き分けの局面に戻った。第25局ではまた少し改良した 10.Qc2! を指し 10...Re8(第27局でアリョーヒンは 10...h6 11.Bh4 Ne8 と手を変えたが成功したとは言えなかった)11.O-O Nf8 12.Rfe1 Be6 13.Na4 で少し有利だった。

8...h6 9.Bh4 dxc4 10.Bxc4

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10...b5

 第13、15および19局でアリョーヒンはここで 10...c5 と指していた。先の2局は 11.dxc5 Nxc5 12.Be2 b6 と進んで互角の形勢で、3局とも短手数の引き分けに終わった。

11.Be2 Bb7 12.O-O c5 13.dxc5 Nxc5

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14.Nd4

 明らかに 14.Qxd8 Rfxd8 15.Rfd1 はまたしても短手数の引き分けになっていただろう。本譜の狙いは 15.Bxf6 Bxf6 16.Ncxb5 である。この手を指さずにすぐに指すのは次のようにルークを得る代わりに2駒を失う。14.Bxf6 Bxf6 15.Nxb5 Qxd1 16.Rfxd1 Nb3 17.Rc7 Bxf3 -/+

14...Rc8 15.b4

 このポーン突きによって弱体化した枡の付けは後で高くついた。ともかくも 15.Bf3 と指しておけば安全だった。

15...Ncd7 16.Bg3 Nb6 17.Qb3

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17...Nfd5

 すぐに 17...Nc4 なら白は 18.Rfd1 Qb6 19.a4 と指すことができる。実戦の手の狙いは 18...Nxc3 19.Rxc3 Bd5 20.Qb2 Rxc3 21.Qxc3 Qa8! から 22...Rc8 =/+ である。

18.Bf3 Rc4! 19.Ne4 Qc8

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20.Rxc4

 アリョーヒンはこの手を決定的な大局観の誤りと考えていて 20.Qb1 Rd8 21.Nd2 Rxc1 22.Rxc1 Qa8 23.Bc7 を推奨し次のように付け加えた。「それでも実戦の手は決して本当のポカとみなすことはできない。カパブランカが本局に負けたのは単に自陣の危機に気づくのが遅かったためでありつまるところ完全に押しまくられたためだった。」しかし彼の文章のどこにも白がどうすれば助かったのか示しているところはない。

20...Nxc4 21.Rc1 Qa8

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22.Nc3

 22.Nc5 は 22...Bxc5 23.bxc5 Rc8 24.Be2 Rxc5 25.Bxc4 Qc8!
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でだめである。

22...Rc8 23.Nxd5 Bxd5 24.Bxd5 Qxd5 25.a4 Bf6 26.Nf3 Bb2!

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 アリョーヒンによれば「この手はビショップの利きを損ねずに ...e5 と指すためである。」そして次の変化をあげている。Ⅰ27.Rd1 bxa4! 28.Qxa4 Nb6 29.Rxd5 Nxa4 30.Rd1 Nc3 31.Re1 Rc4 32.Bd6 Ne4 33.Be7 f6 34.Rb1 Kf7 35.Kf1 Bc3
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で黒の楽勝。Ⅱ27.Rb1 Na3! 28.Qxb2 Nxb1 29.Qxb1 Qb3 30.Qf1 bxa4 31.h3 a3
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で黒の勝ち。

27.Re1 Rd8 28.axb5 axb5 29.h3 e5 30.Rb1 e4!

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31.Nd4

 31.Ne1 は 31...Qd2、31.Nh2 は 31...Qd3 が黒クイーンの侵入が致命的になるので良くない。

31...Bxd4 32.Rd1 Nxe3! 白投了

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(この章続く)

2009年11月19日

チェス世界選手権争奪史(95)

第4章 ホセ・ラウル・カパブランカ(続き)

 今やカパブランカの最も狂信的な支持者以外の誰にもタイトルが移動することが明らかだった。アリョーヒンは第22局でも勝勢になったが不用意な一手で棒に振った。次からはまた6局引き分けで第29局も同じ結果になりそうだったがアリョーヒン(黒)は次の局面で致命的なポカを出した。

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55...Bb6 または 55...Bd6 なら十分引き分けだったが実戦の 55...Kg5 で不運にも負けになった。56.Ne5! Bd4 57.Nxf7+ Kf6 58.Nd8 Bb6 59.Nc6 Bc5 60.Kf4! Bxf2
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61.g5+ Kf7 62.Ne5+ Ke7 63.Nxg6+ Kd6 64.Ke4 Bg3 65.Nf4 Ke7
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66.Ke5 Be1 67.d6+ Kd7 68.g6 Bb4 69.Kd5 Ke8 70.d7+ 黒投了
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 4-3の成績で勝負の行方はまた分からなくなったように見えたがアリョーヒンはまもなくだらだらした戦いの第32局と第34局をそれぞれ63手と82手で勝ってかたをつけた。これでチェス史上最長の番勝負がついに終わった。最終結果は挑戦者の6勝3敗25分だった。

(この章終わり)

2009年11月20日

チェス世界選手権争奪史(96)

第5章 アレクサンドル・アリョーヒン

 「かくして私の労苦は報いられ努力は栄光に輝いた!」とアリョーヒン自身の対カパブランカ戦の記述は始まっている。この形式的な表現は彼の4年に渡る準備と番勝負自体のとてつもない緊張を思い起こせばほとんど感傷的には思われない。彼は初めから終わりまで通常の攻撃的で冒険的な棋風を抑え、「チェス機械」と異名をとった男から奪取するのに必要と考えたもっと慎重で堅実なやり方を優先させた。

 ルーベン・ファインはその頃自分の棋歴の全盛期にさしかかっていたがアリョーヒンと初めて顔を合わせた時の思い出を次のように記している。

 『1932年にパサデナで初めて彼と会った時彼の天才の秘密が分かり始めた。彼は私に2、3ヶ月前にベルンでエーべと対局した試合を見せた。彼の目と振る舞いは全然見たことがないほど異様な熱心さだった。この男はチェスを愛していて、彼にとってはチェスが人生の活力源だった。コントラクトブリッジのテーブルで彼は突然スコットランド布局の未知の変化について話し始めることがあった。メキシコ行きの車中では1日4時間も新型の研究に根気強く没頭した。どの大会のどの選手によって指されたどの試合でも彼にとっては熱中する対象になって何時間もぶっ続けに新しい考えが湧き出てきた。休みの日や期間も早指しチェスをして楽しんでいた。彼はチェスのために、それもチェスだけのために生きていた。』[ファイン著『チェスの進撃』]

 アリョーヒンを知る多くの人たちは回想の中で彼の機知と魅力、話し上手の才能、そして全般的な愛想のよさ(もちろん対局時は例外)を書いている。しかし彼の人間性には別の側面があり年月を経るとともにますます前面に出てきて最後には陰気で恐ろしいロシア小説中の人物のように思われた。彼のもっとささいな欠点の一つは最も顕著だった。チェスへの献身ゆえに出版に当たって見つけられずに済むと思えばいつも自分の試合の成績を「改善」することをやめなかったし他人の研究の労苦を自分のものと主張するのもやめなかった。1930年代初めには酒におぼれるようになり年とともにますますひどくなった。そして1935年のエーべとの選手権戦でとんでもない事態に至った。ある試合では酔っ払ってまともに対局できない状態になり、実際に対局した試合のほとんども酩酊の状態にあったと伝えられている。晩年の活動では、特に自発的にせよそうでないにせよナチの宣伝機関との協力活動は、もっとあとで述べる必要がある。

(この章続く)

「ヒカルのチェス」(151)

「British Chess Magazine」2009年10月号(1/3)

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古豪対新鋭

イアン・ロジャーズがアムステルダムで「年長者優位」の空前の例を目撃した。

 2006年からオランダの億万長者のヨープ・バン・オーステロムが毎年アムステルダムで有望な若手5選手と5人のベテラン・グランドマスターとを戦わせる新鋭対古豪大会を主催してきた。

 オランダの首都に観光客の押し寄せる時期にアムステルダム中心部の高級なホテル・クラスナポルスキーで開催されるにもかかわらず、この催しはたまにしか観戦者の興味を引きつけなかった。たぶん若者が毎回勝っていたためだろう。(自分の若い頃のヒーローが毎日負かされるのを見るのは面白いことではない。)実際2008年に年長選手組が若手チームに33½-16½でつぶされてからはこのやり方そのものが根底から揺らいでいるように思えた。

 主催者側の解決策は年長チームを高レイティングの30代グランドマスターで補強することだった。まさしく世界級選手で33歳のピョートル・スビドレルが二人の現役の伝説的選手のアレクサンドル・ベリヤフスキーとリュボミル・リュボエビッチに加わって指すことになった。

 この変更は好ましい結果をもたらした。観戦者数は大会期間中着実に増加した。そして米国選手権者のヒカル・ナカムラ率いる強力若手チームの大奮闘にもかかわらず老練チームが27½-22½で初めて勝利した。

 二人の個人成績が際立っていて最終結果に大きく影響した。それはナカムラの不調とリュボエビッチの復活である。ナカムラの2009年は絶好調だった。しかしアムステルダムには病気と時差ぼけを患ってやってきた。それというのも日本での大会からニューヨークで1泊してオランダに飛行機で来たためだった。第3回戦のベリヤフスキーとの度肝を抜く試合でまた素晴らしい活躍を期待させたが、そのあと21歳の若者はエネルギーが尽きて最後の6試合で1点しか挙げられず15歳のホウ・イーファンと共に最下位に終わった。

・・・・

 2009年NH大会はキング翼インディアンを用いた黒の驚嘆の2試合の勝利が注目に値する。その1局は前述のナカムラの勝局である。

NH古豪対新鋭
2009年8月20-31日
オランダ・アムステルダム
古豪 27½ - 新鋭 22½




     ヤン・スメーツ
GM 2632
ファビアノ・カルアナ
GM 2670
ダニエル・ステルワヘン
GM 2630
ホウ・イーファン
GM 2584
ヒカル・ナカムラ
GM 2710
古豪組計
1ペテル・ハイネ・ニールセンGMデンマーク2680½ 1½ ½1 ½½ 1½ ½
2ピョートル・スビドレルGMロシア2739½ ½½ 0½ ½1 ½1 16
3リュボミル・リュボエビッチGMセルビア25530 ½½ ½1 01 ½½ 1
4アレクサンドル・ベリヤフスキーGMスロベニア26620 0½ 11 ½½ ½½ ½5
5ルーク・ファン・ベリGMオランダ2655½ ½½ ½½ 0½ ½½ ½
 新鋭組計   65 

Y091120A.JPG

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(この号続く)

2009年11月21日

チェス世界選手権争奪史(97)

第5章 アレクサンドル・アリョーヒン(続き)

 1927年の終わりに国際チェス連盟(FIDE)は会員(構成団体となっている各国の連盟)に書簡を配布した。そこでは世界選手権が決定される方式は「チェス界全般のために抜本的な変更が必要である」と明言していた。残念ながら当時のFIDEには状況を取り仕切る権威が何もなかった。一つには将来の番勝負の資金を自身で拠出することが期待できなかったことがある。さらには伝統的にまだ個人の所有物とみなすことが奨励されていた個人の手にタイトルがある時にそれを管理することは法的にも倫理的にも多くの問題があったためである。

 アリョーヒンとの再戦を実現しようとするカパブランカのむなしい努力の錯綜した逸話は状況が今日とはかけ離れていることを物語っている。まず両者のことを理解することが大切である。二人は長い間親密な友人関係だったが1927年の番勝負後完全に反目するようになった。二人とも生来あまり寛大な性格でなく、どちらかを「魔王のように傲慢」と呼ぶのは虚偽の父である悪魔を中傷することであり、交渉は非常に神経を要するものになった。

 それにカパブランカが本当に再戦を望んでいたのかという疑念もあった。確かにカパブランカはそのような番勝負が行なわれなければ責任はひとえにアリョーヒンにあると見られることを望んでいただけで再び番勝負を戦うことには熱心でなかったというのが多くの事情通の意見だった。その一方で信頼できる証人がいるとすればこの人となるハンス・クモッホの次のような証言もある。

 『キッシンゲンで私はカパブランカと出会いかなり親密な間柄になった。一緒に長い散歩をしよく世界選手権の話をした。それについてカパブランカはいつも「自分のタイトル」という表現を使っていた。それはたまたま一時的にアリョーヒンの手にあるに過ぎないと思っているようだった。一度ならず彼は私が大金を得る方法を説明した。それはごく簡単である。つまりアリョーヒンとの再戦をまとめてカパブランカにありったけの金をかけるだけである。それで私がかけに勝つ。それくらい確実なことである。』[ハンス・クモッホ『カパブランカの思い出』チェスレビュー誌1954年3月号]

(この章続く)

2009年11月22日

チェス世界選手権争奪史(98)

第5章 アレクサンドル・アリョーヒン(続き)

 クモッホは実際の交渉の実体の詳細も明らかにしている。

 『この時カパブランカはパリに滞在していて私を仲介者としてアリョーヒンに再戦を申し込んだ。私はその密書をアリョーヒンに届けた。彼はそれを2週間ほど手元においていたがその後私に返してよこした。このようにしてカパブランカからのどんな手紙も受け取る気がないことを明らかにした。私の知る限りそれで「自分のタイトル」の悲劇物語は終わりになった。』

 1928年8月のキッシンゲンでエフィム・ボゴリュボフはカパブランカを抑えて大きな大会に優勝した。そしてすぐにアリョーヒンに世界選手権戦への挑戦を申し入れた。アリョーヒンは「原則的に」受け入れいつもの論争が始まった。それはアリョーヒン対カパブランカの再戦を主催するというニュージャージー州のブラッドリービーチからの確かな申し出によって中断された。アリョーヒンはこの申し出を無視しヨーロッパでボゴリュボフと会って番勝負を行なうことを取り決めた。それは予定どおり1929年9月6日からドイツのビースバーデンで始まり、のちにドイツとオランダの他の都市に移動して行なわれた。

 カパブランカを度外視すればエフィム・ボゴリュボフが誰とも同じくらいタイトル戦への権利を持っていることは誰も否定しようがなかった。彼は1889年4月14日にキエフで生まれ、1914年マンハイムの大会で国際大会の舞台を踏み始めた。その大会は第一次世界大戦によって中断され彼はドイツ政府によってトライベルク近くの強制収容所に抑留された外国人マスターの一人となった。暇つぶしのために大会が頻繁に催されそこでボゴリュボフのチェスの才能が開花し休戦までには世界の最強選手の仲間入りをした。戦後はドイツに定住しドイツ人女性と結婚したが1926年までロシア市民権を放棄しなかった。そのため第3回および第4回全ソ連選手権戦の参加資格があり両方とも優勝した。また1925年のモスクワ国際大会にはソ連の代表として参加した。そしてラスカーに1½点差、世界チャンピオンのカパブランカに2点差をつけて優勝した。彼が初めて世界王座への候補者として頭角を現したのはこの大会での圧勝だった。それからは数多くの優勝を成し遂げたがその棋歴にもかかわらずアリョーヒン相手で勝ち目があると考える者はいなかった。番勝負はチャンピオンの11勝5敗9分に終わりすべての人の正しかったことが裏付けられた。

(この章続く)

2009年11月23日

チェス世界選手権争奪史(99)

第5章 アレクサンドル・アリョーヒン(続き)

 試合それ自体は当時のアリョーヒンの実力をいくらか下回っていた。布局は試行的なことが明らかで、カパブランカとの戦いの試練からの切実な休息を楽しんでいなかったと信じるわけにはいかない。第8局にそれが見て取れる。

クイーン翼インディアン防御
白 ボゴリュボフ
黒 アリョーヒン

1.d4 Nf6 2.c4 b6 3.Nc3 Bb7 4.f3 d5 5.cxd5 Nxd5
YFMF099A.JPG
6.e4 Nxc3 7.bxc3 e6 8.Bb5+ Nd7 9.Ne2 Be7 10.O-O a6
YFMF099B.JPG
11.Bd3 c5 12.Bb2? Qc7 13.f4 Nf6 14.Ng3 h5! 15.Qe2 h4
YFMF099C.JPG
16.Nh1 Nh5 17.Qg4 O-O-O 18.Rae1 Kb8 19.f5 e5 20.d5 c4
YFMF099D.JPG
21.Bc2 Bc5+ 22.Nf2 g6 23.fxg6 Rdg8 24.Bc1 Bc8 25.Qf3 Rxg6
YFMF099E.JPG
26.Kh1 Ng3+! 27.hxg3 hxg3+ 28.Nh3 Bxh3 29.gxh3 Rxh3+ 30.Kg2 Rh2#
YFMF099F.JPG

(この章続く)

2009年11月24日

チェス世界選手権争奪史(100)

第5章 アレクサンドル・アリョーヒン(続き)

 その後の2、3年間アリョーヒンは生涯最高のチェスとチェス史上最高の試合のいくつかを指した。仲間の一人は感動して「アリョーヒンは『太陽のチェス』を指している」と言った。まさに太陽のように光り輝くチェスである。1930年サンレモと1931年ブレッドでの優勝は躍進する若手世代全体に刺激を与えた。そして世界チャンピオンとしての立場を利用してこの二つの大会からカパブランカを除外させたことを思い起こしてもほとんど評判が落ちなかった。1927年から1934年ヘースティングズ・クリスマス大会でチェコスロバキアの若きチャンピオンのサロ・フロールに次いで2位になった時まで明らかに無敵以外の何ものでもなかった。

 フロール(1908年生まれ)は1930年代初めに頭角を現した若手選手の一人に過ぎなかった。米国からはアイザック・カシュダン、ルーベン・ファインそれにサミュエル・レシェフスキーの三人が現れた。彼らはベテランのフランク・マーシャルと他の若手世代のアル・ホロウィッツ[訳注 本書の著者]、アーサー・デイクおよびハーマン・スタイナーと共に1931年プラハ・オリンピアードから始まる隔年開催オリンピアードの米国4連覇の原動力となった。カシュダン(1905年生まれ)は他の者より少し年長で高い技量の大局観で指す選手で収局が得意だった。全盛期は1920年代の終わりで世界選手権挑戦候補とうわさされたこともあった。しかしかなり早く絶頂から衰え何年かは最強の国際的選手の一人として踏みとどまっていたが選手権を真剣に脅かすには至らなかった。ルーベン・ファインは1914年生まれでニューヨーク市で育ちそこの活発なチェス界の申し子で1933年からヨーロッパの大会に参加し始め一連の優勝を積み重ねて、アリョーヒンへの次期挑戦者を決めるという触れ込みの1938年のAVRO大会で同点優勝し頂点を極めた。彼はアリョーヒンの後継者を決めるために開かれた1948年の大会に招待された6選手の一人だった。しかしその後医学の研究に没頭し(今では有名な精神科医となっている)、棋力が衰え1951年から完全に実戦から引退した。

(この章続く)

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