<からだ、壊してなきゃいいけど・・・・>
藤野恵美は遠沢綾乃の身を案じながら、駅の階段を降りた。昨日、梅雨明け宣言がされたのに朝からの雨はやみそうにない。
「恵美!あんた、チェス詳しかったよね?」
「う、うん。少しだけ」
会社で同期の綾乃から『チェスを教えてほしい』と頼まれたのは今年の一月だった。綾乃の彼氏が、チェスクラブに通ってる話を綾乃にしてたので興味をもったようだ。でも綾乃の彼がチェスを趣味にしてたのは、彼が、まだ大阪にいたときから綾乃は知ってたはずだ。
「何で、そのとき、彼に教えてもらわなかったの?」
「だって、難しそうだったし。まさか、彼が東京に行くことになるなんて、考えてもいなかったから」
「彼はあと半年で、大阪に帰ってくるんじゃなかったっけ?」
「だからさあ、そのときまでに相手ができるようになりたいの!」
恵美は戸惑っていた。綾乃の彼氏とは何度かネットでチェスをしたことがある。彼の実力は初段くらいだ。将棋の経験者であれば、半年で初段クラスになることは可能だが、綾乃は将棋をやったことが無いからだ。
「綾乃、結構大変だよ?」
「あたし、頑張るから!」
その日から、猛特訓が始まった。一生懸命に技術を吸収しようとする綾乃に、恵美は自分の持っている全知識をそそいだ。
三月の終わり頃。綾乃の実力は恵美が真剣に考えてゲームをしないと負ける状態にまでなっていた。
「綾乃、すごいわ!!こんな短期間で、ここまで強くなるなんて!」
「えへへ。私だって、やればできるもん!!」
「たぶん、彼とゲームしても勝てるよ!」
「そう言ってもらえるなんて嬉しいわ!」
いつものように、綾乃の家でゲームをこなした後、ショートケーキを食べ談笑していた。
「これ見て!!恵美」
「あっ!これ、最新型のデジタル・クロックと試合用のチェスセットじゃない!!このチェスセットって・・・・かなりの値段したでしょ?」
「前に、彼が『これ欲しいなあ~』て、言ってたの!」
「でも、綾乃の彼、吃驚するだろうね!内緒で綾乃がチェスを覚えたのと、セットまで買ってくれたのを知ったら!!」
「ふ、ふふ~ん」
「羨ましいなあ」
手続きを済ませて、恵美は拘置所の面会室に入った。
拘置所を出た恵美は、駅まで急いだ。雨は激しさを増し、雷鳴が轟いている。
<彼の帰りが待てず、東京に行った綾乃。綾乃が一番ショックだったのは、綾乃が買ったのと同じ対局時計とチェスセットで、彼と浮気相手が楽しそうにゲームをしてたことだ!彼と女が寝てる現場だったら、まだ・・・・>