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お嬢さまのために(前編)

「お嬢さま」
「何?」
「お手数ですが、こちらをお読みください」


 

   局後検討                                           HAWK
「ドローオファー」
 谷沢憲二の声が喫茶アイソレート ポーンの店内に響いた。
<残り時間三分……ドローで良し、とするか>
 棋譜用紙の白三十五手目の欄にR×g7+(=)と記すと、谷沢は対戦相手である熊野勝久を見つめた。
<ドローなら、黒も不満はないはず>
 谷沢は両手を膝の上に置き姿勢を正した。熊野が谷沢の提案を受諾して握手を求めた時に備えるためだ。
 十秒後、熊野は黒三十五手目を指した。35...K×g7。
<はっ??オッサン……>
 熊野が提案を拒否するなど全く想像していなかったので、谷沢は驚いた。
<はあ……やること決まってるのに>
 すぐに平静を取り戻し谷沢は白三十六手目を指した。そのあと、白黒双方ノータイムの着手が続いた。黒三十八手目を指した直後、熊野が呟いた。
「……」
「んん?」
 熊野が発した言葉が聞き取れなかったので、谷沢は思わず声を上げて熊野の目を見た。
「ドローオファー」
「ああ。ドローアグリード」
 熊野が今度はじっかりと言った。谷沢も意味を理解し提案受け入れの意思を告げた後、右手を差し出した。握手を交わして引き分けが成立した。
「え~と、他の局は終わってるのかな?」
「うん……終わってるね」
 小声で訊いた谷沢に、熊野も小声で答えた。
「はあ……途中で時間使いすぎたなあ」
 試合の緊張から開放された谷沢は手を頭の後ろに組んで背を反らして叫んだ。熊野は棋譜用紙を見つめている。
「最初から……いきますか」
「はい」
 谷沢と熊野は手元にある相手の駒を返して、駒を初期配置にならべ直した。それから局後の検討を始めた。
1.e4 c5 2.Nf3 Nc6 3.d4 cd4 4.Nd4 Nf6 5.Nc3 e5 6.Ndb5 d6 7.Bg5 a6 8.Na3 b5 9.Nd5 Be7 10.Bf6 Bf6 11.c3 0-0 12.Nc2 Bg5 13.a4 ba4 14.Ra4 a5 15.Bc4 Rb8 16.b3 Kh8 17.h4 Bh6 18.Nce3 Be6
 熊野が首をかしげて呟いた。
「これが良くなかったなあ」
「ここはBe3を予想してたんですが…」
「やっぱ、それしか無いのか」
「この後、NでBを取って黒がNe7としたときに、白がどうするか?ですねえ……」
 咳払いをしてから、谷沢が続けた。
「昨日下調べしましたけど、ここから白の手も悩みますねえ。とりあえず事前に考えた手はありましたけど…」
19.Nf5 Bf5
「d5のNを取ったら、どうなんだろ?やっぱ、危ないかな」
 谷沢の問いかけに、熊野は右手で頭を掻きながら、テーブルにある棋譜用紙を見つめた。
「ここは、迷ったけどねえ」
「でも、やっぱりf5の方が良いか……ちょっと、やってみますか?」
「やってみる」
 三分ほど、二人は黒19手目にBd5とした場合の変化手順を指し示したみた。
「う~ん……これはこれで、ややこしいな。実戦手順に戻りますか」
「そうだね」
20.ef5 e4
 e4のPを掴みながら熊野が言った。
「うっかりしてたなあ。白の次の手が見えてない」
「そうですねえ」
21.g4 Ne5 22.g5 Nf3 23.Kf1 Bg5 24.hg5 Qg5 25.Ne3
「谷沢くん。実戦中に<白にNe3と、うまい受けがあるなあ>と思ったんだよ」
「そうですねえ。Qのダイヤゴナルを止めてf5のPを守る。これがぴったりか」
25…Qf6 26.Bd5
 谷沢がテーブルの端を右手中指で叩き、左手で頬杖をついた。
「ここなあ…とりあえずe4のPを取りにいくのを優先させたけど…」
「いや、良いんじゃないかな」
「黒の次の手で、マテリアルはイーブンになりますよ」
26...Qc3 27.Be4 Nd2 28.Kg2 Rb3 29.Qc2 Ne4 30.Qe4 Rb4 31.Rb4 ab4 32.Qe7
「いちおう、これで黒に脅しをかけたんですが……」
「f6の方が良かったんじゃない?」
 それまで隣のテーブルで検討を見ていた富樫賢吾が、立ち上がり谷沢に告げた。
「そっちの方が良かったかな?」
 谷沢が盤面を黒31手目の局面に戻した。
「黒がg6としたらQをh4にまわすでしょ、そこで黒がh5としたらQg5とすれば」
「う~ん…」
「いや、待って。f6のときに黒がh6としたら?」
 熊野が感想を述べると、谷沢も富樫も言葉に詰まった。
「h6なあ」
 読みに入ってなかった手なので、富樫も腕組みをして頭をひねった。
「とりあえず、今はまた実戦手順に戻りましょう。後でまた検討で」
「はいはい」
 谷沢がとりあえず促して熊野と二人で白32手目の局面を再現した。
32…Qc6 33.Kh2 Kg8 34.Rg1 Qf3
「谷沢くん。次、Ng4で白の勝ち、じゃないか?」
「えっ?」
「……うん、白が勝ってんじゃない」
 熊野に指摘され、しかも富樫も支持したので、谷沢は盤面を食い入るように見つめた。
 十分後、変化手順の出尽くした感が見えたので、谷沢は気持ちの整理をつけ、検討が終了のときにする挨拶を熊野にした。
「ありがとうございました」
 谷沢は頭を下げた。
「ありがとうございました」
 熊野も頭を下げた。
 熊野はジュースを買いに外に出たが、谷沢は勝ち局を逃したからか、しばらく呆然としていた。
                                          (初出:メイトスレッド3号)


「……ふ~ん、はいはい」
「あっ、読まれましたか」
「……しかし、これ、オチも何もない短編小説というか小話ねえ」
「……」
「真剣な顔して『お嬢さま、こちらをお読み下さい』とか言うから、読んでみたけど」
「なにぶん、私が昔書いた駄作ですから」
「要するに……試合が終わってからの検討の雰囲気がこんな感じ、と伝えたいわけね」
「はい」
「……書かれていたゲームは、随分昔のだけど、シシリアン・スベシュニコフね」
「昔は黒番で採用する人が多かったんです」
「ちょっと、ならべてみるか」
「……」
「……ふ~ん、本当に懐かしいラインねえ。21世紀初頭の香りがするわ」
「……」
「ねえ?」
「はい、何でしょう?」
「白29手目QC2のところ、ここでNd5は考えてなかったの?」
「ここで、ですか……」
「……もう、いいわ。夜も遅いし」
「お嬢さま」
「何よ?」
「申し訳ありませんが、こちらもお読み願います」
「ちょっと、勘弁してよお」
                                                    (つづく)

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2007年04月28日 02:52に投稿されたエントリーのページです。

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