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「お母さん、おなかすいた~」
「もうすぐ終わるから、ちょっと待って」
「もう~、それさっきも言った~」
「はいはい、もうすぐだからね~」
三十分近く同じ会話を繰り返しながらも、利恵は、引越の荷物整理をしている。一度は、全ての作業が終了したのだが、やはりここにすれば良かったと配置を変更していた。でも、さすがに疲れた利恵は、
「美咲、じゃあ、外に食べに行こ」
と床に寝転んでふてくされている娘に告げた。
時刻は午後三時半、今日は早めに昼食をとったので、利恵も少し空腹だった。
玄関を出ると、まだ五月下旬なのに、真夏のような熱気だ。今からこれじゃあと思いながら利恵は、先にエレベーターホールに走っていった美咲の後を追った。
利恵がこの町に帰ってきたのは、十年ぶりだ。正確には帰省した時に、幼少の頃をすごしたこの辺りをたびたび訪ねてはいるが、その時とは違い、今日からここが再出発の場所となる。今振り返ると、あんなバカと一緒になってしまった自分が情けないが、もう忘れてしまおう。それより、これから美咲と二人で暮らしていくことを考えなければならない。ただ、実家とは歩いて八分の今の環境は利恵には心強かった。
自宅を出て、美咲と駅前に向かって百五十メートル程歩いていた利恵は、思わず足を止めた。左斜め五メートル先にあるコインパーキングの道を挟んだ隣にある店に、見覚えが無かったからだ。気になって近くまでいくと、店の外装は白と黒の市松模様になっていて、看板には、『喫茶 アイソレート ポーン』と書いてある。
利恵はどんな店か考えていると、店から白シャツと黒スラックスの格好をした四十代の男が出てきた。
「はい、何でしょう」
男が話しかけてきた。
「あの、営業されてるんですか?」、
「はい、五日前にオープンしたばかりなんです。よろしくお願いします!」
うわずった声で出た利恵の問いかけに、男は元気に答えてから頭を下げた。
そこまでされると、立ち去りにくくなった利恵は、そこで食事にすることに決めた。
店内に入ると、十席程のテーブルがある。冷房がきき過ぎていて寒いくらいだ。
「緒方さん、オフィシャルゲームしましょう、しましょう」
紺の背広を着た中年男が大きな声で連呼している。
「しかしね、あなた本当に公式戦好きですね。昨日二局やったばかりじゃないですか!」
カウンター近くのテーブルでスポーツ新聞を読んでいた緒方は呆れていたが、やがて背広の中年がいるテーブルに移った。
その隣のテーブルでは、髭を生やした男が向かいの学生に、一枚の紙を見ながら、
「白井君、これ答え二通りあるぞ。プロブレムやったら、こんなんあかんで!!」
と指摘していた。
そんな会話を耳にしながら、利恵たちは空いていた窓際のテーブルを見つけ、利恵は奥の椅子に座った。先客をもう一度よく観察すると、全員に共通しているのはテーブルの上にある白と黒の物体をやたら移動させている事だ。一秒後にはチェスだとわかったが、そんなもの外国の映画やドラマにたまに出てくる程度の認識で、間近に見るのは初めてだった。
ふと自分達のテーブルに目を向けると、縦横五十センチ位のチェック模様がある。おそらく、この店のテーブル全部がこれと同じなのだろう。変わった店ねと思いながら、利恵はメニューを手にした。
気をとり直し利恵は、
「美咲ちゃん、何食べたい?」
美咲は、小声で、
「カレー」
「あんた、こういうお店のは辛いわよ、食べれるの?」
確認した利恵に、
「食べれるもん!」
美咲は少しムキになった。
この子も小学三年生だから、いつまでも子供じゃないかと、利恵はミートスパゲティーとビーフカレーを注文した。
料理がくるまで、利恵はあらためて店内を見わたす。隣のテーブルには、金髪の青年と、三十代の黒人男性がいる。詳しくは、利恵の隣が、金髪の青年、美咲の隣が黒人の男。その隣のテーブルには、美咲側に四十代の白人の男、利恵側にやや背の低い二十代の、日本人と思われる男がいた。
この四人は他のテーブルの人達と違い、ものすごく速く駒を動かし、時計らしき物の上のボタンを叩きあっている。最初は、カチ、カチ、と静かに押していたのだが、次第にパシン、パシンと、なって、そのうちバシン、バシン、バシン、バシンと、間隔も短くなり音も大きくなってきた。そして、一人の男が突然、
「オーウ、シィット!!」
と叫び左手でテーブルを叩いた。
<一体何なの、この連中は!>
と思った利恵は、もう関わらないでおこうと決めた。美咲の方も不思議な光景と感じたか、カレーがまだ口の中に残った状態で、利恵に尋ねた。
「お母さん、みんな何やってんの?」
美咲の頬についていた御飯粒をとりながら利恵は、
「チェスをしてるの」
「何それ~?」
美咲があたりかまわず発した声は意外と店内に響いた。すると隣の男達がこちらを睨んできた。
「邪魔しちゃ悪いから、静かにしてようね」
利恵はあわてて諭した。
しばらくして、隣のテーブルの黒人男性が、何やら英語で金髪の青年に話した後で、店外に去った。入れ違いで、寝癖のついた頭をした黒のジャージ姿の男が入ってきた。
「谷沢さん、ブリッツしませんか?」
「今度出るアイソレート通信の原稿持ってきただけですから」
金髪の青年の誘いを断り、店のカウンターに封筒を置くと、店の前にエンジンをかけたままのスクーターに跨り消えていった。
すっかり暇になった金髪の青年は、鞄の中から本を取り出し、駒を並べ始めた。
しばらくして、金髪の青年は隣のテーブルの少女がレモンティーを飲みながら、じっとこちらを見ているのに気づいた。いつもの彼なら気にはしないが、珍しく少女に声をかけてみた。
「チェス、やってみる?」
「でも、それってむずかしいんでしょ?ウチの娘に出来そうにもないけど」
「そんな事ないです、簡単ですよ」
利恵は気を使って柔らかく断ったが、青年の方は笑顔で勧めた。
愛想笑いではなく、自然に出た笑顔で言われたので、美咲も興味津々になってきた。利恵も、それなら少しだけとなると、青年は椅子を利恵たちのテーブルに寄せて、さっきまでゲームをしていた駒をもってきた。
「これは二人でする遊びで、一人が白、もう一方は黒を担当します。それから・・・」
青年はまずゲームの流れ、駒の種類と移り次に自分で実際に駒を動かし、利恵と美咲にも促した。利恵は、このテのゲームはオセロしかやった事は無い。美咲にいたっては、とてもわかってるとは思えないが、一生懸命青年が教えてくれるので駒を動かしてはいた。
利恵は青年の説明を頭の中で整理した。
ゲーム開始前に自分と相手が担当する駒の色を決める。縦横共八桝から成る市松模様の盤を自分の右手前に白桝がくる様に設置する。両者は指定された場所に自分が担当する色の駒を全て並べる。これでゲームは始める準備は整った。
まず白を担当する方が駒を動かす。次に黒を担当する方、そして白とゲーム終了まで、必ず交互に行う。
規則に違反しない方法で相手のキングを完全に捕まえる、又は相手が降参すれば自分の勝ちとなる。勝敗がつかず、引き分けとなることもある。
次に自分で実際に駒を動かし、利恵と美咲にも促した。利恵は、このテのゲームはオセロしかやった事は無い。美咲にいたっては、とてもわかってるとは思えないが、一生懸命青年が教えてくれるので駒を動かしてはいた。
利恵は青年の説明を頭の中で整理した。
ゲーム開始前に自分と相手が担当する駒の色を決める。縦横共八桝から成る市松模様の盤を自分の右手前に白桝がくる様に設置する。両者は指定された場所に自分が担当する色の駒を全て並べる。これでゲームは始める準備は整った。
まず白を担当する方が駒を動かす。次に黒を担当する方、そして白とゲーム終了まで、必ず交互に行う。
規則に違反しない方法で相手のキングを完全に捕まえる、又は相手が降参すれば自分の勝ちとなる。勝敗がつかず、引き分けとなることもある。
駒の種類と数は、白黒全く同じで、キング・クイーン各一個、ルック・ビショップ・ナイト各二個、ポーン八個である。
駒の形だが、キングは一番大きく十字架がついている。クイーンはその次の大きさで、頭にはティアラをつけた感じだ。ルックは西洋の城、ビショップも外国の寺院のようだ。ナイトは馬の横顔。ポーンは一番小さい駒で、下級兵士を連想する。
駒の動き方。クイーンは縦横斜めに動ける。ただ、味方の駒(自分が担当している色の駒)が通り道にあると、その直前の桝までしか行けない。敵の駒(相手が担当している色の駒)が通り道にある場合、それよりも先に行けないのは味方の駒の時と同じだが、その敵の駒のいる桝まで行き、その駒を取り除き、その桝にクイーンを置くことができる。
ルックは縦横に動ける。美咲が今持っている駒はビショップで、これは斜めに動ける。
ルックとビショップは、クイーンと比べて、動ける範囲は限られているが、通り道に味方がいれば直前でストップ、敵の時は、その敵を一つだけ取れるのはクイーンと同じだ。
キングは縦横斜め一桝だけ動ける。隣の桝に味方がいれば、その桝には動けず、敵の場合は例外を除いて、それを取って進む事ができる。
キングが他の駒と違う点は、キングが敵に取られる事態になると例外を除いて負けになることだ。だから、ゲーム中はキングの安全を頭に入れておかねばならない。
なお、自分の駒が動ける範囲に敵の駒があるからといって、必ず取らなければならないことは例外を除き無い。但し相手の駒を取ったら、必ずその桝に動ける自分の駒を置かなければならない。(これも例外がある)確かこんな感じだった。
気がつくと、もう一時間近く、この青年に教えてもらっていた。いくら何でも青年に悪いと思った利恵は、
「ごめんなさい、そろそろ帰らないと。今日はどうもありがとうございました。美咲、お兄ちゃんにお礼をいうのよ」
「お兄ちゃん、ありがとう」
元気な声で、美咲はお礼をいった。青年は、
「将棋の場合、礼に始まり礼に終わりますが、チェスでは、握手に始まり握手に終わります」
そう言って、美咲に右手を差し出した。
握手を交わし利恵たちは、店のカウンターへ向かった。会計を済ませ帰ろうとする利恵に店員は、
「またよろしければお願いします。水曜と土曜にはチェスプレーヤーが来てますので」
「まだ、子供は小学生ですし」
利恵が難色を示すと、
「遊技料金、子供さんは大人の半額にさせて頂きます。あと、御影にもチェスサークルがあって、そちらには小学生も何人かいます。
詳しい事はこの紙にありますから」
店員は手帳サイズの紙を利恵に渡した。利恵は礼を言い、店内のポスターに見とれていた美咲に声を掛け帰途についた。
テレビの騒がしい音で目が覚めた利恵は、しばらく布団から起き上がれなかった。時計を見ると十時五十二分。昨日寝たの何時だったかなと思い出そうとしたが思い出せない。ダイニングには、美咲が朝食べたトーストの食べかすと、アップルジュースが四分の一程残っていた。
利恵は食器を片付けた後、さて今日はどうしようかなと思案していた。実家にも顔を出さないといけないし、昨日喫茶店から帰ってすぐに電話があった可奈子のところにも連絡しなければいけない。明日から仕事で忙しいからやれる事は今日しなくていけない。のん気にテレビをみている美咲が羨ましい。
いい天気だったので、利恵は洗濯をすませ、布団を干した。そうしていると十二時少し前になった。
<近所のスーパーに買い物にいってもいいけど、お昼は外で食べよう。いつもいつもの事じゃないし、食べてから実家に寄るか>
予定を決めた利恵は美咲を連れ昨日と同じように駅前を目指し歩いた。
「あれ?昨日のお兄ちゃんがいるよ」
美咲が利恵の袖を引っぱり指差した。確かにコンビニから出てきた男は、昨日チェスを教えてくれた金髪の青年だった。向こうもこちらに気付き、美咲も手を振ったので青年が近づいてきた。
「昨日はどうもありがとうございました」
利恵が頭を下げると青年は、
「いえいえ、もしかして、今日もチェスを
しに、これから?」
「いえ、たまたま通りがかっただけです」
利恵は首を横に振って答えたが、
「あたし、この近くに住んでいるの!」
美咲が余計な事を喋ってくれた!
「えっ、この近くだったんですか」
「はい、ここから三分位のところです」
利恵は、そう答えざるを得なかった。
「そうですか、また良かったら、店に来てください。それじゃ」
と言い残すと、青年は足早に昨日の店の方へ去っていった。
「ねえ、今日も行っていい?」
美咲は上目づかいで強請った。
「お兄ちゃん、忙しそうだったから今度ね」
美咲を宥めてから、利恵は駅前のバーガーショップに行こうと歩きだした。
昼食後、近所のスーパーマーケットに寄り、一旦自宅へ戻った利恵たちは一時間後には実家に向かった。本当は利恵一人で行くつもりだったが美咲も行きたいと五月蝿いので仕方ない。
両親と利恵はこれからの事を話し合った。当面の生活は心配ないと語る利恵の顔を見て父も母も安心したようで、気前よく特上鮨を御馳走してくれた。
夜の十時五十分頃、利恵は電話をかけた。
「はい」
「可奈子、今、大丈夫?」
「ちょっと待って(七秒後)いいよ」
「メールにも書いたけど、とりあえず今、落ち着いたとこ。疲れた~」
「でも、まだ残ってるんでしょ?」
「まあね、いろいろまわんなきゃいけないけど、はあ~」
「明日仕事なんだから早く寝たら」
「何かもう一日位休みたいけどなあ」
「大変だもんねえ」
「まあ、あのバカの顔、もう見なくていいと思うと、せいせいするけど。何かな~、なんであんな奴と、なあ~」
「あんまり考えない方がいいんじゃない?」
「あたしの人生返してほしい!」
「う~ん、あたしもそうだったからな~」
「養育費くらい払えよな~」
「貰えそう?」
「たぶん、ダメ、はあ」
「払わない奴、多いからな~」
「可奈子はどうだった?」
「最初の数回だけ、あとは・・・・」
「なんで、ケチるかなあ?」
「別れた女房に金払うくらいなら、風俗でも行くんじゃない?」
「風俗ねえ、そんな金あるんなら、払えよ!ムカつく!!」
「別れたら、子供なんて、どうでもいいのかな~、なんか思い出してきた」
「面倒はみない、金は出さない、サイテー」
「仕事で疲れてるんだよとか、遊べないからとか、日曜くらい休ませてくれとか、いろいろ理由つけて、こっちばっかりに子供押しつけてくるからな~、男は」
「そんなのこっちも一緒って、言えないのよねえ。子供の事考えると」
「たまに、こっちが遊びにいったりとかしたら、恩着せがましく言ってきたからねえ」
「まあ、当分は美咲と二人でやっていくわ。可奈子、今日はゴメンね」
「ううん、いいよ」
「うん、それじゃあ。あ!あ!可奈子!昔、中学で一緒だった竹野のお父さんが経営してた喫茶店、おぼえてる?」
「ああ、でもあそこ、だいぶ前になくなったでしょ?」
「昨日近くを通ったら、そこの跡地に新しく喫茶店ができてたよ」
「ふうん、そうなんだ。この頃あの辺行ってないからな~」
「実は、美咲とそこに入ってみたらチェスをやってる人が、何人かいたの」
「チェスー?! 何で?」
「テーブルがチェック模様になってて、外人も三人位いたな~」
「そういうたまり場なんじゃない?」
「そこで外人に声かけられて、少しだけやり方教えてもらったの」
「あんた、そういうの興味あったっけ?」
「美咲がやりたそうにしてたから」
「美咲ちゃん、やったことあるの?」
「たまたま、してみたかったんじゃないかな?昨日が初めてだったみたいだったけど」
「あれって、将棋みたいなやつでしょ?」
「うん。少し違うとか、言ってたけど」
「ふうん。それで声かけてきた外人は、どんな感じの人?」
「二十歳くらいかな~。綺麗なブロンドだった。まあかわいい感じだったなあ。声をかけたのは、美咲になんだけど」
「そうなんだ」
「美咲がその人、気に入ったのか今日もその店に行こうって、言われちゃった」
「あれ?外人でしょ!日本語は?」
「きれいな日本語だったよ。あ!もうこんな時間だ!可奈子、今日はありがとうね。それじゃあ、おやすみ」
電話を終え、利恵は眠りについた。
2
「うう~ん、もう少し寝かせて~」
寝返りをうった利恵に、男は左手の人差し指と中指を彼女の背中から尻へ這わせていた。
「もう、やめてって、言ってるでしょ!!」
利恵は足をバタつかせて上体を起こし、男を睨みつけた。
「そんな怒んなくても」
男は右手で利恵の左乳房を持ち上げるように揉みながら哀願した。利恵はその手を払いのけバスタオルをつかむと、風呂場に駆け込んでいった。
<そういえば、あれから四ヶ月か・・・・>
シャワーを頭から浴びながら、利恵は当時の事を思い出していた。
六月の第三日曜日。朝早く利恵と美咲は家を出た。まもなく、二人を乗せた快速急行は御影に着こうとしている。
利恵たちは御影駅の改札を出て南西方向へ約二百メートル歩き、目的地の御影区民交流会館に着いた。二階にある第二会議室の前まで行くと、扉は開けっ放しの状態で、室内では男二人が長机を何組か連結させている。利恵が腕時計に目をやると八時五十六分。もうすぐ開場の時間だ。
「おはようございます、少しの間、空いている椅子におかけになってお待ち下さい」
利恵たちに気づいた谷沢はチェスシートを広げながら話した。もうひとりの男は鞄から対局時計と駒箱を次々と出している。自分たちだけ座ってるのも悪いと思った利恵は、入口付近で男達の作業が終わるまで立っていた。
「朝早くから、御苦労様です」
午前九時を少し過ぎた頃、会場設営を終了した谷沢は利恵に近づき再び挨拶した。もうひとりの男も挨拶の言葉を述べた。
「おはようございます。本日は御忙しいところを、御影チェスサークルまで足を運んでくださってありがとうございます。代表の笹川と申します」
「田村利恵と申します。この娘は美咲です」
笹川が最敬礼をしたので、利恵も深々と頭を下げた。
「谷沢さんから聞いたんですが、先週、喫茶アイソレート ポーンで御影の紹介を受けられたそうですね?」
「はい。日曜日は公式戦を優先しているので申し訳ないが、ビギナーの指導はできないと店長に言われまして。その時、谷沢さんに」
笹川の問いに利恵が答えると、笹川は頷いてから話した。
「一つの空間しか無い状況だと、それも仕方ないでしょう。ここでは必ず二つ以上の部屋を借りてます。静かに対局をされたい方と喋りながらチェスを楽しまれる方、それぞれの希望に応えられます」
「子供は騒ぐと思いますから、それだと助かります」
「チェスを楽しむ点では、皆さん一致してますが、年齢・職業さまざまな人が集まる事になるので面白い話を聞けたりします。なかにはチェスそっちのけで、ここを出て左の突きあたりの喫煙所で話ばっかりしてる人もいますけど」
話の後半、笹川の表情は苦笑いの様に見えた。
「立ち話も何ですから。こちらへ」
谷沢は木製のチェスボードと駒が置いてある連結机の椅子を二つ引き、利恵と美咲を座らせた。谷沢は二人の対面に席を取ると利恵に尋ねた。
「とりあえず、どの辺りまでルール覚えてますか?」
「三週間前に、喫茶店で外人の方に、キング、クイーン、ルーク、ビショップの動かし方を教えてもらいました。この娘と一緒に」
「外人?誰だろ?まあいいか~。そしたら、今いった四つの駒、動かしてもらえますか」
谷沢が初形配置にあった駒を全て盤の外へ出し、まずキングを利恵の前に差し出した。
利恵は覚えていたが、美咲はクイーンと混同してる様だった。それでもすぐに思い出したみたいで、二人とも、クイーン、ルック、ビショップにはきちんと反応した。
谷沢が一番気がかりだったのは、利恵がどれだけチェスに関心を示しているかだ。子供の付き添いの場合、子供がしたいから来たけど自分はあまりやろうと思わないとの態度の親がいるからだ。しかし、利恵も美咲も、一度だけしか教えてもらっていないのに、駒をちゃんと動かしたので、久しぶりに楽しみな親子に会ったなと、考えていた。そばで見ていた笹川も、感心したような顔だ。
基本的な駒の動かし方をしばらくした後、笹川はチェックの意味や方法の説明に入った。
*ここで読者に覚えて頂きたい事を筆者が記す。記録の方法だ。国によって表記は違うが、本作では国際式を採用する。
盤の表記は縦の列(ファイル)はa~hのアルファベットを用い、横の列(ランク)は1~8の数字を使う。常に白番から見た左手前の桝はa1、右手前の桝はh1、左の一番奥の桝はa8、右の一番奥の桝はh8だ。
aファイル~dファイルをクイーンサイド、eファイル~hファイルをキングサイドと呼ぶ。
駒の表記は、キングをK、クイーンをQ、ルックをR、ビショップをB、ナイトをN、
ポーンはPとする(棋譜記入の時、ポーンはPを省略する)。
この際だから、棋譜記入で使う記号をいくつか紹介する。キングサイドキャッスリングは0―0、クイーンサイドキャッスリングは0―0―0。チェックは+、チェックメイトは#。×は駒取りが行われた事を表す(紙面の都合上、省略される場合もある)。好手は!、素晴しい手は!!、疑問手は?、悪い手は??。白番が勝つ勢いの状態は+-、黒番が勝つ勢いの時は-+。白の勝ちは1―0、黒の勝ちは0―1、引き分けは1/2-1/2。
盤上に白黒共六つの駒しかないとする。駒配置は、白がa5にP、c1にR、c8にR、f1にB、f2にK、g1にB。黒がb6にP、d7にK、d8にN、f8にN、g6にQ。次の手番(次に動かす番)が白として、f2のKをe1に動かした時は、Ke1と記す。それではなくてf1のBをb5に動かしたら、黒のd7のKにあたるので、Bb5+となる。もしa5のPでb6のPを取ったら、記録の際には、Pは省かれるので、動かすPのいたファイルと駒を取って移動した地点を書く事となる。よって、a×b6。自分や相手のNとRが、二つ以上盤に残っていると、重複した地点に行ける時がある。その地点にNやRを動かしたら、動かす時にいたファイルやランクを駒記号の後に付ける(R8c5、Nde6)。長い説明になった、本編に戻る*
「チェックは覚えてます?」
「確か、キングを捕まえますよっていう意味でしたよね?」
笹川に訊かれて利恵が自信なさげにいうと、
「そうです。チェックをかけられたら、かけられた方は必ず対応しないといけません。もし対応できない状態になると、された方が負けになります」
笹川は、いろいろな形でのチェックをかけ、その時の対応を駒を手にして示した。
「ここで次が白なら、どうなりますか?」
笹川が盤に駒を並べた。駒は白がb5にB、d2にR、f2とg2とh3にP、g1にK。黒がb8にB、c3にR、f7とg7とh7にP、g8にKとなっている。
「Rをここに持っていけば、いいんですね」
利恵がd2のRをd8に置いた。
「はい。このRがd8に行くと、黒のKは逃げる所は無いので黒の負けとなり、ゲームは終わります」
笹川はそう答えてから、d8に置かれたRをd2に戻した。
「同じ局面で手番は黒として、RC1+なら、白はどうしますか?」
二人に考えてもらっていると、中年の男が会議室に入ってきた。
「戸川さん、こんにちは」
谷沢が応対すると、
「谷沢君、保険に入らない?」
持ってきたパンフレットを、谷沢に渡した。
「生命保険ですか~。もしかして、受取人は戸川さん?」
「よく、わかったねえ」
そのような会話を交わした後、谷沢は、
「笹川君、戸川さんと向こうで公式戦やってもいい?」
「はいはい、いいですよ。ここは私がやりますから」
笹川の了解を得ると、谷沢と戸川は、隣の第三会議室に消えていった。
「ここに、これを持ってくるの!」
美咲の声で、盤面に視線を戻した笹川は、
「おお、良くわかったね!白はb5のBをf1に持ってきて、c1のRの通り道を防ぐしかないね~」
「Kが逃げる手はないんですか?」
利恵が考えていた手を笹川に告げると、即座に笹川は、
「h2にKは逃げれません。b8のBが利いてますから」
「あっ、そうですね。Bがありました」
「Rc1+に対して、白がRd1とすると、一時的には、黒のチェックを防げますが、次に、黒にR×d1とされて、白は駒損になります。一度盤上から消えた駒は補充できませんから、駒を何の代償も得ないで損する事は、避けなくてはなりません」
笹川の解説が終わった頃、時刻は十時二十分になっていた。
「少し休憩しますか」
笹川はそう言うと、ペットボトルの麦茶を紙コップ二つに注ぎ利恵たちにすすめた。
「小学生も来てるって、聞いたんですけど」
「すいません。今日はいつも来られてる方が用事があるみたいで。大人しか来ないかもしれません」
利恵が拍子抜けした様な口調だったので、笹川もすまなそうに弁解した。
「あそこの喫茶店と、ここ以外にチェスができる場所はあるんですか?」
「二ヵ月前に、京都で鳥山さんがチェスサークルを始めたとは聞きました。まだ私は行った事はないんですが・・・・」
「京都は遠いですね」
「う~ん、そうですね」
しばらく、利恵も笹川も沈黙した。
「この会議室にある盤と駒は、全部笹川さんのですか?」
「はい、そうです」
「それじゃ、いつもこれだけの荷物だと大変じゃないですか?」
「駒と時計はかさばりますけど、シートは丸めるので、それほどではないんです。今使用しているこれは、折りたためますし」
笹川は、さっきまで利恵たちも使っていた木製の盤を裏むけにした。
「じゃあ、ここに駒を入れれるんですね」
「そうです」
「あの、失礼ですけど、おいくら位、するんですか?」
「これは知り合いから安くで譲ってもらったんです。そうですね、これと同じ試合用サイズの新品だと、一万円を越えますね」
「やっぱり、結構するんですね」
「でも、試合用のビニール製チェスシートとプラスチック駒なら、合わせて三千円から五千円であると思います。チェスシートは木の盤に比べて軽いですし、プラ駒は汚れたら洗えます。ただ、駒の底はフェルトになってますから、まるごと水に沈めるとはいかないんですが・・・・」
「家のテーブルであのシートひくと、意外に幅をとるんじゃないですか?」
「縦横五十センチはありますからね。デパートで小さめのチェスセットも売ってます。主に、一人で研究する時に使いますけど。あっ、あれがあったんだ!」
笹川は鞄の中からA3サイズの大きさの紙を二枚取り出し、利恵に手渡した。
「これは簡易チェスセットです。破線に沿って鋏で切り、下にボール紙などでのりづけすれば、そこそこ頑丈になります」
「何か、感じが違いますね」
「ネット対局や本の図では、それを使います。普段コンピューターで対局してる人は、逆に立体の駒に戸惑う事もありますね。あと、これもどうぞ」
「これは?」
「初心者の方に、チェスのゲームの進め方、駒の進み方などを簡単に説明する為に、まとめたものです」
いつのまにか、十時四十五分になった。
「それじゃ、さっき渡した冊子の6ページ目にある、ナイトとポーンの動き方を説明します」
笹川は講義を再開した。利恵が冊子を見ると、ナイトとポーンの動き方、駒の取り方などが図になっている。
一時間経ってから、
「それじゃ、白のNがいけるところに黒のPを置いてみて」
笹川は美咲におさらいのテストをした。盤上にあるのは白のNがf3にひとつだけだ。d2、d4、e1、e5、g1、g5、h2、h4に美咲は十秒位でPを置いた。
「その通りです。Nが跳べる位置に自分の駒があると、そこにはいけなくて、相手の駒があると、取って進めます。但し自分のNが動くと、相手の駒が自分のKにあたる場合は動けません」
笹川は美咲をほめてから、
「田村さん、Pの動きを説明してください」
今度は利恵の番だ。
「基本的には、一桝前に進めます。一度進むと、後にはいけません。一番奥のランクまでPは進むと、Pの身分を捨ててK以外の駒に変身します。一度変身した駒はずっとその身分です。Pの真ん前に敵味方の駒があると進めないし取れません。斜め一桝前に敵の駒があると、取って進めます。スタート地点のPを進める時に限って、二桝進めます。別に一桝だけ動いたり敵の駒を取ってもいいけど、動いたPは二桝進める権利はなくなります。アンパサンは、自分のPが第5ランクにいた時に隣接するファイルの相手Pがスタート地点から二桝進むと次の自分の手番の時に限り相手Pを取って進める事ができることです。これはPとPだけの適用です。これでよかったですね?」
利恵はひとつひとつ思い出す様に答えた。
「いや~、すごいですね!なかなかPは覚えづらいんですけど。オッケーです!」
笹川は感心というより驚嘆した表情になった。隣の部屋にいた谷沢と戸川が戻ってきた。
「やっぱり、戸川さんにはかなわんな~」
谷沢が頭を抱えて笹川に棋譜を渡すと、
「谷沢君、強くなってるよ」
戸川は谷沢の背中を軽く叩き慰めた。
「さて、そろそろお昼の時間ですが、どうしましょう?近くにコンビニ、少し歩いて中華、ファミリーレストランがありますが。お好きな所に案内します」
「この子にしては、珍しく真面目にしてたので、ファミリーレストランにします」
笹川の提案に、利恵は美咲の頭を撫でながら快諾した。十二時を過ぎると混雑するので、弁当持参の谷沢に留守番を頼み戸川を加えた四人は会議室を出た。
利恵たちは朝来た道をそのまま戻るように歩いていた。笹川と戸川が先導し一メートル後方に利恵と美咲がいる形だ。
「田村さん、お子さんとも筋がいいですね!本当に今日で二回目なんですか?」
笹川が振り返って利恵に話しかけた。
「でも、今でもついていくのが必死なんです。これから、もっと難しくなるんですよね?」
「大丈夫ですよ。田村さんだったら、すんなりいけると思います」
「そんな期待されても」
「今日見た感じだと戸川さんの息子さん達に、すぐ追いつけますよ」
「そうなの?こりゃ、あいつらにも、しっかりやらせないと」
戸川は冗談ぽく言ったが、内心穏やかではないなと笹川は察した。
「普段は、お子さんも来られるんですか?」
「ええ。男ばかり三人なんだけど。今日は上の二人が用事で一番下の奴は、ひとりだと行くのは嫌だと、ダダをこねやがったんですよ。しょっちゅう、ケンカばっかしてる兄貴でも、いないと淋しいもんですかねえ~」
利恵に呆れた表情で戸川は釈明した。
「男の子三人だと、奥様、今は大変かもしれませんね。でも、先の事考えると、頼りになりますから楽しみじゃないですか!」
「それだったらいいんだけど。今のとこはその可能性は低いなあ。男ばっかだと、ガサツになりますから」
戸川は利恵に答えたのち、深いため息を二度ついた。
「戸川さん、お疲れのようですね」
「君も所帯持ったらわかるよ!笑ってるのは今のうちだけだよ、ねえ?」
笹川が、やや口元を緩めて訊いたので、戸川は憮然としてから、利恵には同意を求めた。
「はあ・・・・。そ、そうですね」
利恵は何と答えればいいか、困り果てた。
昼食を終え、第二会議室に四人が戻ると、谷沢が誰かと対局しているところだった。
「リザイン」
ゴン、と一瞬大きな音をたてて、谷沢が黒Kを倒した。
「あ~、もう。ブラインドでこれだからな。全く話にならんよ」
「まあ、まあ、谷沢さん。以前よりだいぶ指せてますよ、強くなってます」
両手で顔を覆いながら落ちこむ谷沢に、男はアイマスクを取ってから励ました。
笹川と戸川が、谷沢たちのテーブルに近寄る。三分程スコアを再現して、四人で検討していた。戸川が入口で利恵たちをそのままにしてたのに気づき、声を掛けると、谷沢の対局相手が振り返った。
「こんにちは!」
頭を少しだけ下げ、利恵たちに挨拶した男は、アイソレート ポーンで会った金髪の青年だった。その時と変わらぬ笑顔を見せて。
シャワーを止めバスタオルを体に巻き、利恵は風呂場から出た。ミックスジュースの缶の蓋を開けていると、若い女の変な声が聴こえてきた。その方向を見ると、テレビに外人らしき女の裸が、アップで映っている。
「あんた、何やってんのよ?!」
「あ、ああ、こ、これ。友達がくれた無修正ビデオ。見て、ほら」
「あんたねえ、いつまで裸でいてるの!今日は京都でしょ!行かなかったら、鳥山さん怒るわよ」
「まだ時間あるよ。ねえ、利恵。して」
「自分でしなさい」
「ねえ、お願い」
金髪の青年が右手に握っている膨張したブツは、今にも暴発しそうだったが利恵は無視して着がえをはじめた。
3
「それじゃあ、行こうか!」
利恵は美咲に声を掛け喫茶 アイソレート ポーンに向かった。
店には先客が四人いた。利恵はカウンターで手続きをして、入口右の窓際にある一番テーブルに席を取った。
時刻は午前十時四十五分。第一局開始は十五分後だ。
「すみません。お手数ですけど、一局目が始まるまでに読んでおいて下さい」
アイソレート ポーン店主の宮村は、利恵に二組の冊子を手渡した。
急いで利恵は冊子を読んだ。一組は国際競技規則。以前御影で貰ったのと同じだった。もう一組はアイソレート ポーン チェスクラブ ルールブック。国際競技規則に反しない限り、地方ルールはクラブ・サークルに認められている。よく注意して見たが、これも御影のと大差なかった。
今日は十月二十四日。利恵と美咲は、初めてアイソレート ポーンの公式戦に臨む。御影での戦績は、利恵が一勝二敗、美咲が二勝一敗。さすがに笹川と戸川には負けたが、内容はなかなかのものだった。短期間で上達した利恵たちに笹川は提案した。
「一度、アイソレート ポーンの例会に参加してみませんか?」
「子供が迷惑かけないかしら?」
「対局中に大きな声を出さなければ大丈夫です。御二人とも、ある程度成績は残せると思います。いろいろな人とプレーしていく事で、実力も上がっていきますから。宮村さんには、私から連絡しますよ。私も都合がついたら行くつもりです。久しぶりに」
笹川にここまで言われたので、それならと、教えてもらうつもりで来店した。
十時五十七分。笹川と鳥山が入店。エントリー締切三分前なので、挨拶もそこそこに、カウンターに直行した。
十一時、宮村は第一局目のエントリーを締め切った。二分後、B4サイズの紙がカウンターに掲示される。大きな声で宮村は読み上げていった。
「それでは、第一局目の組み合わせを発表します。緒方さんと田村利恵さん。谷沢さんと田村美咲さん。白井さんと鳥山さん。えー、笹川さんと林さん・・・・以上でよろしいですか?」
異議を唱える事もできるが、今回は無かった。宮村は続ける。
「御異議が無かったので、これでお願いします。持ち時間は三十手50分+20分。結果報告は白番の人がして下さい。十一時五分より始めます」
各人、ゲームを行うテーブルを決めて着席した。一番テーブルに美咲と谷沢。七十センチ離れた二番テーブルに利恵と緒方。二番と連結する様に置かれた三番テーブルでは白井と鳥山。三番から六十センチ空けた四番テーブル、林と笹川。美咲、利恵、白井、林は壁を背にして座り、谷沢、緒方、鳥山、笹川は入口側に陣取っている。
一番・二番テーブルの対局は、初顔合わせなので白番黒番を決めるトスが行われた。
全てのテーブルで対局前の準備が整った。静かに開始時刻を待つ。
「定刻になりましたので、始めて下さい」
宮村が第一局目の開始を宣言した。各テーブルで握手が交わされ、黒番が対局時計のボタンを押し作動させた。
一番テーブル、谷沢が白番だ。初手(第一手)はe4。ほとんどノータイムで、美咲はe5と指した。一分後、谷沢d4。美咲は少し戸惑いながらNc6。3.Nf3 e×d4(白の三手目Nf3 黒の三手目e×d4)、4.Bc4 Nf6と進行した。
谷沢の五手目はN×d4。美咲は二分考えてBc5。美咲の手は予想の範囲だった谷沢は6.N×c6 b×c6の後、7.e5とした。
三分後、7...Qe7。
<おお、なかなか気のきいた手を指すじゃないか!>
谷沢は思わず感心した。白の八手目は0-0。黒Nd5とした後、9.B×d5 c×d5 10.Q×d5 c611.Qd2 0‐0までは、谷沢が八手目に描いたプラン通りだ。白の十二手目Qg5。十一手目Qd2と指したのは、これをしたかったからだ。ここで美咲は考えこんだ。さっきまでは子供らしく愛らしい顔で指していたが真剣な顔になっている。二分経っても美咲が指す気配が無いので、谷沢 は煙草を持って外に出た。公式戦会場は禁煙なので、アイソレート ポーンでは、入口を出てすぐ右が喫煙所となっている。
一服して気分転換した谷沢が席に戻ったその時、美咲はf6と指した。谷沢は特に考えずにe×f6。間髪入れず、美咲はR×f6として、手洗いに行った。
谷沢は二分後、自陣が危険な状況に陥っている事に気づいた。白のクイーンサイドの展開が遅いため、次の手で黒番にBa6とされると、速度で負けてしまう。
<何とか・・・・ならんか?>
谷沢は十五分考え続けた。とうの昔に、美咲は戻ってきている。誰が見てもわかるほど、谷沢の顔は苦渋に満ちていた。
<Ba6、こないでね>
谷沢は下唇を噛み、祈りながらBf4。美咲は待ちくたびれた様に、Bをa6に置いた。
「リザイン」
そう言った後、谷沢は白Kを倒した。
「あっち、行こうか?」
握手をしてから、谷沢が小声で美咲に伝え、トイレ近くの八番テーブルへ案内した。局後の検討をするためだ。美咲を八番へ行かせ谷沢は棋譜用紙を持ち、カウンターにいる宮村に結果報告をした。
二番テーブルは、同時刻、白二十八手目、緒方の手番だった。
1.e4 e5 2.Nf3 Nc6 3.Bc4 Nf6 4.d3 d6 5.c3 Na5 6.Bb5+ c6 7.Ba4 b5 8.Bc2 c5 9.0-0 Be7 10.Re1 0-0 11.h3 Qc7 12.Nbd2 Re8 13.Nf1 Bf8 14.d4 cd4 15.cd4 Nc6 16.d5 Nb4 17.Bb1 a5 18.a4 ba4 19.Ra4 Bd7 20.Ra3 Rec8 21.Bd2 Nc2 22.Rc3 Ne1 23.Rc7 Nf3+ 24.Qf3 Rc7 25.Ng3 a4 26.Nf5 Bf5 27.Qf5 Rac8 28.f4 Rc1+
29.Bc1
緒方は大悪手を指してしまった。もし、対戦相手が自分と同程度の実力があれば、ここでリザインだ。 <とりあえず、はっきりするところまで>
利恵とは初対局だったので、続けた。
29...Rc1+ 30.Kh2 Rb1 31.fe5 de5 32.Qe5
利恵も黒優勢ということは自覚している。しかし、うっかり間違えると逆転されるので慎重に考えた。局後の検討を終えた谷沢が一番テーブルの入口側の席に座った。美咲は入口すぐ右にある本棚から漫画本を二、三冊出している。利恵を見ようともしない。
五分使って、利恵はNe4、二分してから緒方はQe4。
33...Bd6+ 34.g3 Rb2+ 35.Kh1 a3 36.Qe8+ Bf8 37.Qe5 Rb1+ 38.Kg2 a2 0-1
三番テーブルは鳥山が白番で、1-0。
四番テーブル、黒番の笹川は中盤で優位に立ったが終盤間違えてドロー(引き分け)。 両者、持ち時間一分を切る熱戦だった。
全テーブル対局終了となったので、店内は喧騒につつまれた。二局目の受付締切は午後一時四十五分。開始は五十分だ。喫茶 アイソレート ポーンは、例会やトーナメントが行われる日は単なる試合会場となる。飲食物の持込みは自由。コンビニに行く者、弁当持参の者と様々だ。一局目と二局目、二局目と三局目の間に限り、宮村は通常の喫茶店業務をするので注文する人もいた。少し時間があるので、利恵と美咲はバーガーショップに足を運んだ。
谷沢は三番テーブルでドライカレーを食べている。コンビニで買い物をしてきた緒方が谷沢の向かいに座った。袋の中から、デラックスのり弁当と烏龍茶を出している。
「さっきの局、三十三手目Qb8としてれば、まだわからなかったんじゃないですか?」
谷沢が緒方に話しかけた。
「ああ、さっきのね。そうだったかな?とにかく、二十九手目のBc1がひどかったよ。あそこはKh2と逃げとかないと」
緒方は答えながら、棋譜用紙を谷沢に渡した。谷沢は駒を初期配置にしてならべていく。
「ツーナイト・ディフェンス(e4 e5 Nf3 Nc6 Bc4 Nf6)から、ルイ・ロペス(e4 e5 Nf3 Nc6 Bb5)の戦形に変わってますね」
谷沢は次に白十四手目へ移ろうとしていた。
「ちょっと待って、ここで止めて!実戦では14.d4としたんだけど、Bg5の方が良かったかなあ?」
「う~ん、一回Bf8としてますからねえ。黒がまたBe7と戻るのはなあ」
緒方の指摘に谷沢も黒がどう指せばいいか、わからなかった。
緒方の局を検討した後、谷沢が美咲に負けた局を再現しだした。
「これ結局、ツーナイトなんですよね。最初、ダニッシュギャンビット(e4 e5 d4e×d4 c3)を狙ったんですが、Nc6されたのでNf3。e×d4の時に、すぐにN×d4としてりゃ、スコッチ・ゲームだったんですよ。何でBc4としたんだろ?しかも、ゲーム中はスコッチと勘違いしてましたからねえ」
「何か、5.N×d4変だね~。e5としたいけどね」
「緒方さん、後で本見たんですけど、やっぱ、e5となってましたね」
谷沢が黒十二手目まで再現する。
「う~ん、このf6は強烈だな~。その前に白がQd2としたとこで、Qd1だったら、どうなんだろ?」
緒方が見解を述べた頃、一人の女が店に入り谷沢に挨拶した。
「こんにちは」
「ああ」
律子と知ると、谷沢は盤面に目を戻した。
「今日、田村さん親子来てなかった?」
「今、食事に行ってる。子供の方に俺、負けちまったよ!」
「そう、まあかなり強くなったからね」
谷沢の発言にも、律子は少しも驚くことは無かった。
「最近御影には行ってなかったけど、まさかここまで強くなってるとは!」
「あんた、大して強くないでしょ!でも、普通、子供は負けると嫌になってやめちゃうんだけど。美咲ちゃんは、何回でもやってきたからねえ~」
「お母さんの方も、なかなかやるなあ!」
「田村さんは頭いいからなあ。一度言った事忘れないし。真面目な人だからね」
「そんな感じだな」
「何回か、家に遊びに行った事あるよ」
「えっ!いいな~、俺もイキてえ!!」
「あんたみたいな変態、美咲ちゃんに近づけたら田村さんに何言われるか!」
「あのな~。人のことを変態とぬかしやがって!勘違いされるやろ!!」
緒方は谷沢と律子の話を静かに聞いていたが、ここで堪えることができず大笑いしている。
「え~と、誤解されるとまずいので言いますが、別に子供にどうこうしようとは思ってませんから」
「お母さんには、どうこうしたいんでしょ?」
「そりゃ、年も近いんだよ!若い女には無い魅力あるからねえ」
律子は喋ろうとしたとき、利恵と美咲が店に帰ってきた。美咲が律子を見つけ、やってくる。
「お姉ちゃん、今来たの?」
「うん。さっき、このオジちゃんに勝ったんだよね~」
律子に言われて、美咲は少し照れながら、頷いた。谷沢は苦笑している。
二局目、利恵は谷沢に快勝し、美咲も白井を何とか振り切った。
二局目の全対局が終わり谷沢と律子が外で煙草を吸っている。
「そういえば、今日は外人勢一人も来てないな。どうしたんだ?」
「そうね。一人も来てないのって、無かったもんね」
「田村さん、帰ったの?」
「お母さんはまた戻ってくるよ。駅まで美咲ちゃん送っていっただけだから」
律子の返答に谷沢は首を傾げた。
「子供が用事あるんだったら・・・・普通、母ちゃんも一緒に帰らねえか?」
「そんな事、あたしに言われてもねえ」
そう答えた律子だが、五分前に店の入口ですれ違った利恵の様子は確かに変だった。
三局目開始直前に利恵は戻ってきた。谷沢は利恵をよく観察したが、特に変わったところは見当たらない。
午後六時十分、三局目終了。利恵は林に敗れたが、収穫のあるゲームだった。
午後六時三十分、閉店時刻となったので、メンバーはそれぞれ帰途に着く。最後まで店にいた利恵と谷沢と律子も外に出た。帰ろうと自転車を取りにいった谷沢を律子が呼び止めた。
「ねえ、これから田村さんの家で飲むんだけど、あんたも行くでしょ?」
<そうか、律子の奴、いいとこあるじゃん、フッ、へッ、へッ、へッ>
予期せぬ誘いの言葉に、谷沢は心の中で不気味な笑いをしながらも顔には出さず即座に承諾した。
近所のスーパーマーケットで買い出した後、利恵の自宅に三人到着。ダイニングテーブルで飲み始めて二十分経過。谷沢はアルコール類からジュースに切り換えた。律子が呆れる。
「あんた、相変わらず安上がりに酔えるのね」
「こんところ、全然、酒飲んでないからな。元々、あんまり飲めんけど」
谷沢は真っ赤な顔になっていた。
「あたしも久しぶり。この頃そんな暇なくて」
利恵が一番ピッチがはやい。
「今日は美咲もいないからね。何か、一人でいるのも、と思って付き合わせてごめんね」
利恵が二人に頭を下げた。
「いいでしゅよ、気をちゅかわにゃくても」
律子があたりめを口に入れたまま答えた。
「別れた亭主がね、『美咲の誕生祝いしたいから、会わせてくれ』っていきなり今日言いやがって。ひと月に二回会わせてるのに。今日しか時間ないからとか・・・・」
そう話した利恵の表情は、谷沢も律子も今まで見たことがない。
「あは、ごめんね。こんな事言われても困るよね、暗い話しちゃって。チェスの話にしよ。
笹川さんに、谷沢さんが、『大阪にもう一つ、チェスサークルあったらな』と言ってた話、聞いたんだけど」
<酔うと、人格が変わるのか?>
谷沢は警戒して利恵の話を聞いている。
律子が矢継ぎ早に訊いてきた。
「ああ、あんた、前にも言ってたわね。でも、お金あるの?プレーヤー集まるの?」
「現状では資金面で無理なんだが、将来的にはもう一つあった方がいいな。宮村さんが、いなくなった時の事考えると」
谷沢が持論を述べた。
*筆者より:この後、二時間を越える激論となる。鼎談形式でその一部をここに書く*
谷沢憲二(以下Y)やっぱり、御影みたいに公民館借りるのも無いとな。いくら何でも、来年の近畿大会、アイソレート ポーンで、する訳にいかんだろ!
野中律子(以下N)でも、プレーヤーそんなにいないし。人が来なかったら意味ないよ。あんた一人でやるの、それ?
Y 一人でも、やる気はあるよ。
N アイソレート ポーンがあるのに?
Y 日曜日は、あそこ、御影みたいに初心者は来る事できないだろ。例会にしてるから。田村さんは、どう思います?
田村利恵(以下T)あたしは難しい事は・・・・。
N まあ、あんたの好きにすれば!あたしには関係無いし。
Y そこなんだよなあ。誰かが、何かやってくれるって考えてるだろ!それじゃ、いつまでたっても、プレーヤーは増えないんだよ!メンバーひとりひとりが、人、連れて来る思いがないと。
N 怪しげな宗教や勧誘でしょ、それじゃ。
Y でもさあ、メンバーが出来る事しないと!最近姿見せないメンバーに電話一本入れる位、できるだろ!!チェス以外でも話す事あるだろ!
N 私はただ、チェスがしたいだけだからね、面倒な事したくない。
Y でもな、自分だけチェス楽しめりゃいいと思ってたら、人がある程度来てる時はいいけど、そうじゃなくなったら、どうするんだ?律子、お前も実際に人と会って、対戦する面白さ知ってるだろ。それに、教えてもらった事あるだろ。ネットの便利なとこは認める。でも、それ以外は、あんなもん、地下組織と同じだ。一般社会の人間には見えない、聴こえない。実際、ネットプレーヤーと、対戦する機会は御影や大阪で何回かあったけど、礼儀知らず多かったよ、特に若い奴が。『いつもは、ネットなんで』と、シラッと、ぬかしやがる!人との喋り方知らねえんだな!!
N でも、そう言うと、また、人来なくなるよ。それにさあ、あんただって、もう少し穏やかに話せないの。
Y あ~、そうなんだよな。どうしても、こうなるんだよな。しかも、俺は人望が無いからな。でも、頭くるぞ、こういう話をして、つれない反応しかないと。別にチェスをみんなやれよ、という訳じゃないが。想像力とか、危機管理無い奴が多いんだよ、この国の輩は!!あっ、すみません、田村さん。くだらない話、長々としてしまって。
T ううん、気にしないで。でも谷沢くん、いろいろ考えてるのね。
N 田村さん、この男、この勢いで仕事探せばいいのにね。
Y 俺みたいな浮浪者、雇うところあったら、俺が教えてほしいよ!!
4
「Kから動かして下さい、Rからじゃなく」
「あっ、すみません」
「それ、試合でやったら、えらい事になりますからね」
谷沢が一番テーブルで中年の男を指導している。利恵は三分ほど前から眺めていた。
一月の第二土曜日の午後二時頃、利恵は喫茶アイソレート ポーンに来店した。日曜日以外は久しぶりだ。客は六番テーブルにサラリーマンの二人組と、谷沢達しかいなかった。
四番テーブルに席を取った利恵はホットコーヒーを注文した後、コーヒーが来るまでの暇つぶしで一番テーブルに視線を向けた。谷沢がさっきの男に注意してたのは、キャッスリングの際、Kを動かしてからRを動かさなければいけないのを、男がRを動かしてからKをつかんだからだ。一分後、谷沢はあっさりメイト(Kの捕獲)した。
「まあ・・・・キャッスリングは、必ずしなきゃいけないもんでは無いんですよ」
「何か、すぐに終わっちゃいましたね」
谷沢と中年男がゲームを振り返る。利恵は中年男に見覚えが無かったので、おそらく、つい最近、チェスを始めたのだろう。駒を動かすのも、恐る恐るといった手つきだ。
「キャッスリングの意味は何ですか?」
「Kを安全にして、Rを中央に展開させる事です」
「では、一応、おさらいで、キャッスリングのできる状況を整理してもらえますか?」
「まず、自分のKがまだ動いていないこと。それとキャッスリングに使用するRが動いていないこと。キャッスリングの際に、Kが通過する桝と着地する桝に自分と相手の駒が無いこと。それと現在、自分のKがチェックされてないこと。あとキャッスリングの時に、Kが通過する桝と着地する桝に相手の駒が利いていないこと。以上の条件が満たされていれば、キャッスリングが自分の手番の時にできます。白の場合はe1のKをg1に持っていってh1のRをf1に置く。もしくはe1のKをc1に移動させてa1のRをd1に置きます。黒の場合はe8のKをg8に移してh8のRをf8に。それか、e8のKをc8に持っていってa1のRをd8に置きます。aファイルからdファイルがクイーンサイド、eファイルからhファイルがキングサイドですから、e1(e8)のKがg1(g8)に行って、h1(h8)のKがf1(f8)に行くのがキングサイドキャッスリング。e1(e8)のKがc1(c8)に移動してからa1(a8)のRがd1(d8)に行くのがクイーンサイドキャッスリングです」
谷沢の問いに中年男は三分かけて答えた。
「はい、御苦労様です。キャッスリングは特別な手で、KとRが動く一連の手を一手とみなして指されますね。ゲーム中、一回しかできません。ではさっきのゲームなんですが、黒がキングサイドキャッスリングした為に、白のQがh7に行ってメイトになりましたね」
「ええ」
「かえって、キャッスリングしてしまった為に負けてしまったわけです」
「はい」
「キャッスリングする前に、そこんとこ、考えないといけないんですよ。随分、偉そうなこと言いますけど」
「はあ」
中年男は谷沢の言葉に、頭を垂れてしまった。
「まあ、気にしないで下さい。私も昔、同じ事やりましたから。同じ失敗、二度しなきゃいいんです、はい」
谷沢は作り笑いを浮かべて、取り繕っていた。
「あと、今日、やったのは何でしたっけ?」
「トスとステイルメイトです」
「それじゃ、その二つも、おさらいしときましょうか」
谷沢が中年男に促す。しばらくして、眼鏡をかけた二十代の男が右手にB5のコピー用紙を抱えて店に入ってきた。
「こんにちは」
利恵が挨拶した。以前、例会で対戦した事のある東野だった。東野は軽く会釈した後、利恵の向かいに座った。
「それは何ですか?」
東野がテーブルに置いたB5のコピーの束を利恵はたずねた。
「これはですね・・・・今度出す、メイトスレッドの束なんです」
「メイトスレッド?」
「前から考えていたんですが、今回ようやくできまして。チェスの同人誌なんです。ここの、アイソレート ポーン チェスクラブのメンバーの何人かから、チェスに関する様々な記録や記事をまとめたものなんです」
東野は利恵に説明してから、ミートスパゲティーセットを注文した。
一番テーブルでは、中年男がトスの仕方を谷沢に答えていた。
「これは試合の時に担当する色を決めるのに行うものです。一方の人が、相手にわからない様に、白と黒のPを両手に、どちらか一つの色のPを握ります(左手に白P、右手に黒Pといった具合に)。対戦相手は左か右の一つを選んで、その時、出た色が試合で担当する 色になります」
「はい。もちろん、選ばなかった方の手も、開けた方がいいですね。ちゃんと白黒のPを握りましたよ、という意味で」
中年男に谷沢は補足した。
「それじゃ、ステイルメイトを」
「ステイルメイトは、直訳すると、無駄な詰みです。例えば、盤上に残っている駒が、白がc6にK、c4にQ、h5にP。黒がa7にK、h6にPしかないとします。次の手番の白がQc5+、黒がKa8としたときに、白がQb6としてしまうと、黒の駒は動けなくなってしまいます。でも、現在、黒のKにはチェックがかかっていません。このような状態はステイルメイトといって引き分けになります」
「そうですね。チェックメイトは、相手(自分)のKがチェックをかけられていて、Kが逃げる事も、Kや味方の駒を使ってチェックをかけている駒を取る事も、その駒(チェックをかけている駒)の駒利きを味方の駒で遮る事もできないことです。ステイルメイトで肝心な事は、相手(自分)のKにチェックがかかっていない状態で、相手(自分)の手番のときに、動かせる駒が無いという事です」
中年男が間違って覚えていなかったので、谷沢はひと安心した。
「すみません、ちょっとこれから用事がありますんで、失礼します」
「今日は、お疲れ様でした」
中年男がコートを着て、アタッシュケースを抱え帰るのを谷沢は見送った。
谷沢は三番テーブルに移動し、東野の隣に座った。本当は利恵の隣がいいのだが。
「あっ、できあがったんですね!」
谷沢が東野の持ってきたコピー用紙の束を持ち、三十枚一組に分けていった。全部で十二組。それぞれ両面に印刷されていて、下にページがナンバーリングしてある。2ページと3ページを二つ折りにすると、裏の1ページがでてくる。文章は横書きなので、左に若い番号になっている。次々と、谷沢は折っていった。
「まあ、谷沢君。そんなに急がなくてもいいから」
東野はスパゲティーを食べ終わり、ホットコーヒーを飲もうとしているところだった。
「全部で何部になるんですか?」
「三十」
「う~ん、それでも結構な数に見えるなあ」
「四十八ページになったね。皆さん、原稿だしてくれたから」
「最初にしては、なかなかじゃないの」
「うん、そうだね」
谷沢の質問に答えた東野は、コーヒーカップを両手に抱え、一息ついた。
「さて、それじゃ、こちらもやりますか」
東野は鞄の中から緑色の紙を取り出す。
「あの~、手伝いましょうか?」
「それじゃ、これ折っていってもらえます」
谷沢が利恵に五~八ページの束を渡した。
「あの、これ使ってください。指でやると痛くなってきますから」
東野がフェルトペンを利恵に差し出した。
「折った後に、きちんとなるように、それでもう一度押して下さい。そうしないと、後でまとめる時に大変なので」
東野の方はというと、宮村からカッターナイフを借りて、先程の紙を二つに切っている。
「結局、メイトスレッドになったんですね」
「アイソレート ポーン通信も候補に挙がってたけど、こっちの方が良いかなと」
「まあ、メイトスレッドの方がすっきりしてるかな」」
「そういえば、谷沢君。小説の方はすすんでるの?」
「全然。まさか、あんなに大変だとは思わなかったな!」
「まあ、あせらないでやってくれたら。次の〆切まで、まだまだ余裕あるし。ネタの方も浮かんでくるんじゃないの?」
「第一話はね、そんなに苦もなく書けたんだけどね。第二話の出だしをどうしようかで、かなり考えこんでねえ」
「小説、書かれたんですか?」
東野と谷沢の会話に、利恵が入ってきた。
「ええ、どこだっけなあ~?ああ、これだ」
谷沢がさっき分けた紙の束から探し出し、利恵の前に置いた。
「『デヴィアス・ムーヴ』?」
「危なっかしい手という意味です。一応、主人公は八歳のガキでして。チェスのトップ・プレーヤーになってもらうんですが」
「えっ、じゃあ、随分長いお話になるんですねえ」
「まあ、そうです。しかもですね、この子供は、第一話で初めてチェスをするんです」
「この男の子の成長の物語ですね」
「まあ、それについては、これからのお楽しみということで」
「そうですね」
「いや、でもですね。まさか、私がこんな事するはめになるとは。これを書いた経緯について説明しますね、長くなるけど」
「はい」
「谷沢君、話しながらでも、手は動かしてね」
東野に言われて、谷沢はあわてて作業を再開した。
「一ヵ月程前の事なんですけど。近所の同い年の奴から依頼がありまして。そいつは漫画の同人誌作ってるんですよ。『谷沢、チェスに関する記事をお願いしたい』とね。一応、試しに小説書いてみると返事して、原稿用紙十枚位に簡単な出だしの部分を書いたんです。結局、そいつとは後に決別したんですがね。残った原稿をそのままにしとくのもなあと思い、東野さんに話したところ、メイトスレッドに掲載となりまして」
「そうなんですか」
「しかしですね、見切り発車で始めてしまったことに、今はかなり後悔してるんです」
「まだ始めたばかりじゃないですか」
「まず、チェスを題材にした話は、有名なのは日本では無いんですよ。ですから、本当に自分一人でしなきゃいけない。チェスをやった事無い人、バリバリのプレーヤー両方に読みごたえのある物を作りたいと思い、棋譜を入れたんですけど、これがなかなか難しい。だって、私のチェスの実力は田村さんも御存知の通り、まだまだですから」
「じゃあ、棋譜を入れなければいいんじゃないですか?」
「棋譜を書くと、ならべる人も出てきます。それによって、作り話が現実感を伴うので、読んだ人それぞれの考えを持つでしょう。それが私の狙いでもある。それに、棋譜書かないでチェスを伝える方法は、私よりも他の人が優れてるでしょうから、どんどんやればいい。それでチェスプレーヤーが増えたら、いい事だ。私の手法を非難、中傷、罵倒するよりも、建設的ですね」
「は、はあ」
「谷沢君、まあまあ。そんな熱くならなくてもねえ」
東野が利恵のひいた表情を見て、声をかけた。
「ああ、そうですね。どうもすみません」
我にかえった谷沢は、二人に頭を下げた。顔はやや紅潮している。
「あっ、そういえば、田村さんは津オープンに参加されるんですね!」
谷沢が思い出した様に訊いた。
「ええ。津チェスサークルの立本さんに、この前連絡しました。申し込み締切日を過ぎてたんですけど、大丈夫といわれまして」
「いや、昨日、緒方さんに、こっちの緒方ではなくて、向こうの緒方武志さんに電話したら大阪から来る予定のメンバーに田村さんも入っていたので」
「私みたいな弱いのが行って、迷惑かけないかしら?」
「いやいや、大丈夫です。それにですね、野獣みたいな連中ばかりですから。田村さんが行かれると聞いた津の奴等が、珍しくかなり召集かけたみたいですね」
谷沢は自分の言った事を利恵がどう思うかを考えずに喋っている。心なしか、利恵の表情が曇ったのを見てから、問題発言に気づいた。
「あっ、ああ、まあ、さっきのは冗談でして。良い人ばっかですよ、津の人達は。話によると、全部で四十人位集まるんじゃないか、と言ってましたね」
「あれ、そんな数になるの?地区予選も近いからどうかと思ってたけど」
東野は信じられない顔をした。普段は、あまり感情表現を出す事はない。
「そうですね。津自体が発足してからまだ一年と少しなので知名度は低いんですけどね。他地区からも、まずまず集まるみたいだね」
「他地区って、日本中からですか?」
利恵が思わず谷沢に顔を向けた。作業していた手も止めている。
「ええ、青森から鹿児島まで、全ての都道府県とはいかないけど、クラブ、サークルはありましてね。気合いの入った奴がやってくるんですよ。もちろん、それぞれの地区の例会にも顔出したり、リーダーやってる人もいますけど、まだ日本のチェスプレーヤーは少ないですからね。いろいろな人とゲームしたい連中がいまして。まあ、でも常連みたいになると同じなんですが。やっぱり同じ趣味やってる仲間ですから楽しいですよ」
「そうですね」
「それに他の地区の人達といると、いろいろ勉強になりますね。ここ半年前になってですが、私もあちこちに顔を出して迷惑かけて申し訳ないけど、大阪を離れて大阪の良いところ、悪いところとか、考えるようになりました。普段、あたり前と思っているなにげない事でも、意外と大変とかね。まあまあ、話しだすとキリがないので、この辺で」
「谷沢さん、チェス好きなんですねえ」
「いやいや、良い人達に逢いましたから。私はチンピラですけど」
利恵が感心しているのを見て、谷沢は照れて下を向きながら呟いた。
いつの間にか、店内には利恵、谷沢、東野だけになっていた。洗い物を終えた宮村も製本作業に加わり三十分後、製本が完了した。手伝った利恵と谷沢は、編集長の東野から二百五十円で購入した。東野は手元に何冊か残した後、残った本を宮村に売る。宮村は東野に金を渡してから、店で販売となる。定価は三百五十円。返本がきかないので、この価格は妥当なとこだろう。なお、原稿掲載、表紙絵採用の者は卸値の二百五十円である。
「どうなんだろ。ゆくゆくは、五十部、百部と発行部数増えないかな」
「百だと、私一人だとちょっと。とりあえず、三ヶ月に一回の割合で出していこうと思ってるんだけど」
「よそのクラブとかで、定期的に出版されてるのは、あまりないからなあ。それだけに、がんばらないと」
「まあ、そう、だね」
「欲を言えば、隔月刊を目標にしたいなあ」
「まあ、まだそれは、先の話だよ」
東野と谷沢の話には耳もくれず、利恵はメイトスレッドを飛ばし読みしていた。中身はほとんど自戦記だが、十八ページに大きく、提言と見出しを打った谷沢の寄稿があった。最後のページまでいった後、利恵は十八ページに戻った。
(続く)
提言 谷沢憲二
英語圏でチェスと呼ばれるボードゲームは、世界で何十億もの人々に親しまれている。残念ながら、日本では極端に愛好者が少ないのだが、それについて書きたい。
はじめに断っておくが、チェスができるからといって、偉くも何ともない。金をたくさん持っているだけで人間が素晴らしいわけでも何でもないように。
なに?金がすべてだって??ああ、そうかい、それならよ、まあ、せいぜい金抱いて死んでくれ!俺はそんな奴は怖くねえんだよ!俺が怖いのはホンモノだけだからな!!ホンモノは、金なんかで動いたりしねえんだ!!
本題に戻ろう。
原因のひとつに、チェスプレーヤー自身に問題があるのではないか?積極的にだ、プレーヤー増加を望んでおらず、閉鎖した空間で満足しているのではないかということだ。まあ、今だに一度たりとて、革命を起こした事の無いこの国の一員だからか?
チェスプレーヤーを増やす方法を考えてみる。よくいわれる二つのことは、天才がでるか、次世代の大人、子供に普及を浸透させるといったとこか。
天才を待つ?さあ、いつ、そのような人物が出現するのかな?
子供に教える?あなたは一体、何人の子供にチェスを教えた?(あくまでも、されたことのある方には頭が下がります。私が軽蔑するのは、言うだけ言ってしたこと無い輩)
私は今まで、何ヵ所ものチェスサークル、クラブに参加して、プレーヤー増加の為に何をすれば良いか質問してきた。そこで、一番多かった回答は、なんと、他力本願だった!
自分は何もしないけど、増えたらいいな
ハッ、ハッ、ハッ!腐った人間もいるんだなあ!!世の中、甘いもんだ!!誰かが何かしてくれるなんて、そんな都合の良い事あるの?あるんやったら、もうとっくの昔によ、プレーヤー増えてるだろうが!!
では、どうすれば競技人口が増えるか思案してる方には、この言葉を贈ります。
『今、あなたのできる事を。それを積み重ねて、更にステップアップする事を恐れないでほしい。自分がチェスを支える気概を保つ事を忘れずに』
何だ、そんな事か?簡単な事じゃないかと思ったあなた、じゃあ、やってみて!
今までの文章を笑ったオマエ、じゃあよ、てめえに訊くぞ!
『貴様はチェスの普及をどれだけ考えた?それからよ、チェスで教わった事は何だ?教えてもらった事を他の人に伝えるアタマは無いんかい?知りあったプレーヤーはゴロツキしかおらんかったんか?自分だけ楽しかったらええんか?自分以外の他人なんざ知ったこっちゃないんかい?ああ、どうなんや、答えてみろ!おい、聞いてんか!答えられんのやったら、二度と笑うな!』
最後に、クラブ、サークルリーダーの方々、いつも御苦労様。どうか、これからも謙虚な気持ちで運営をしていただきたい。以前、消滅したクラブにいたプレーヤーが、私に語ったのを記す。
「リーダーが傲慢だと大変なんだよ!なにせ、メンバーあってのリーダーといった、基本的なこと、わからなくなるからな!」
「話し合いのできねえ奴をトップにしたら、絶対駄目だ!!」
「自分に反対意見の人物を排除したがる輩は、大したこと無いと思え!」
「立場の弱い人を馬鹿にする人間は、将来何しでかすか、わからんから、徹底的に叩け!」
「本当に偉い人間はな、いつも自分に対して厳しいんだ!!自分に甘いカスは、まあ、いずれ消え去るが害毒をまき散らすかもしれんので、油断するな!いいな、俺の言った事は心に刻んどけ!!」
5
「おじゃましま~す」
「いらっしゃい、家、すぐわかった?」
「うん」
「あっ、美咲ちゃん、いらっしゃい」
「こんにちは」
「大きくなったね。しばらく見ないうちに」
「由香里、ごめんね。無理言って」
「ううん、気にしないで」
野沢由香里は利恵と美咲を、玄関からすぐ右にある四畳半の和室へ案内した。
「すぐ御飯にするから」
「ごめんね~、忙しい時に来て」
由香里は利恵に返答せず台所に戻った。由香里の娘、直美が茶碗をダイニングテーブルに運んでいる。
「あら、直美ちゃん。お母さんのお手伝いをするなんて、偉いわねえ。それに比べて、誰かさんは、ちっとも、してくれないけど」
利恵が美咲に視線を移すと、美咲は露骨に不機嫌な顔をして横を向いた。
「直美だって、いつもやってる訳じゃないから。美咲ちゃん、気にしなくていいよ。はい、おまたせ」
由香里はそう言うと、鍋をテーブルに置き、直美に卵を持ってくるように告げた。献立はすき焼。時刻は午後七時三十分。由香里と直美にとっては、いつもより遅い夕食だった。
午後十一時。ダイニングテーブルで新聞を読んでいた利恵に、由香里はビールをすすめ、向かいの席についた。
「あ~、やっと落ち着いたわ!」
「二人とも、寝てた?」
「うん」
「由香里、ごめんね」
「だから、別に気にしないでいいよ」
「どっかホテルに泊まろうかと思ったけど」
「直美も喜んでたから。それにこっちの方が安上がりでしょ」
「うん、助かる」
「でもなあ、お姉ちゃんがわざわざチェスをしに、四日市まで来るとは思わなかったなあ」
「そう言われたら、そうね」
「ねえ、何でそこまでやるの?そんなに面白いの、チェス?」
「う~ん、どこが面白いのって訊かれても、何て答えたらいいのかなあ?」
「やっぱ、あれ!彼の影響?」
由香里は目を潤ませて顔を近づけてきた。
「まあ、最初はね」
「あれから、どうなったの?」
「う~ん、何かなあ~。年下と付き合ったことって、あまり無かったからなあ。最初はね、何か新鮮だったし、外人だったし、かわいいかなって思ったけど、やっぱガキね。年下はガキだわ。もういいわ」
「あれ?もうそれじゃあ、終わったの?」
「うん。もう、疲れた。まだ彼には言ってないけど、終わらせるつもり」
「ふ~ん、そうなんだ~」
利恵の答えが予想と違ったので、由香里は、何ともつまらない表情になった。
「あんた、どうなってるの?隆さんとは」
「あー、アイツー。さあ?」
一番ムカツク男の名をだされて、由香里は下を向き、右手に持っていた空の缶ビールを握りつぶした。
「さあーって。どうすんのよ?これから」
「これからって?」
「今のままじゃ、まずいよ~」
「お姉ちゃん、人の事言えないでしょ!」
「そりゃあ、そうだけどさ」
「何かなあ~」
「許すつもりは無いの?」
「あんな奴と、やってけ、って言うの?」
「無理なの?」
「嫌だ、嫌だ。もう、あんな奴なんかと、一緒にやってくなんて、耐えられない」
「直美ちゃんは?」
「直美はあたしについてくれると思う」
「でもなあ」
「そりゃあさあ、あたしだって、直美のこと考えて随分悩んだよ。でも、もうダメ。これ以上もたない。直美だって『お母さんとだったら、二人でもいいよ』って言ってくれたし」
「あ~あ、七歳の子に言わせたくないわ、そんなこと」
「だから、人のこと言えないでしょ!」
「じゃあ、わかった。とにかく直美ちゃんにとって一番良い方法で考えて。それとあんたにとって良い方法」
「離婚」
「だからさあ、離婚したいからって、すぐに離婚できる状況じゃないでしょ、今は」
「・・・・うん」
「ある程度準備しても、結構大変だからね」
「・・・・」
「まあ、でも直美ちゃんの年なら、まだいいかもね」
「・・・・」
「あ~あ。お父さん、何て言うかな~」
「・・・・別に、何も言わないんじゃない?お姉ちゃんで経験済みだし」
「あんたまでって、なったらなあ」
「俊がいればいいの!」
「まあ・・・・俊のとこはうまくやってるみたいね」
「何でかなあ?」
「あたし達二人見てさあ、俊も女の勉強したんじゃない?」
「何かっていったらさあ、すぐ『お姉ちゃん、お姉ちゃん』って、泣きついてきやがってたくせに」
「あんた、なに昔の話してんの」
「ただ、おとなしいだけじゃん」
「あたし達が、うるさかったからねえ」
「こないだ、実家に電話したんだけど、お母さんと千枝ちゃん、うまくやってるみたいね」
「まあ、千枝ちゃん、いい嫁だもんねえ」
「まあね」
「私も男だったら、千枝ちゃんみたいな人と結婚するのはいいと思うよ」
「う~ん・・・・」
「まあ、一番大事なのは、相性と価値観が一致してることね」
「そうだなあ」
「あたしとアンタも、そこんとこかなあ。今になって思うと・・・・」
「どっか、いい男いないかなあ?」
「いい男って、必ず浮気するよ」
「浮気しないヤツで」
「無理、無理!いい男って、在庫ないの!!結婚してる、してないの関係なくね」
「そうだなあ」
「いい男の基準をどこに置くかは、個人差があると思うから、これ以上言わないけど。でも、これだけは言えるな。子供とちゃんと向きあえない奴とは結婚しない方がいい。そんな男は家庭持っちゃダメ!ふたりで生活するだけなら、ともかくね」
「男って、何もしないからなあ」
「仕事で大変なのはわかる。でも、子供育てるのは、そんなこと関係ないの!でも、馬鹿な男はこれ言ってもわからない、わかろうとしないんだもんなあ~」
「う~ん・・・・」
「まあ、子供産む苦労知らないから、わかれよって、いくら言っても無駄ね」
「う~ん」
「由香里、これから大変だと思うけど、あたしにできる事あったら協力するから」
「うん、ありがと」
「がんばろう、ねっ」
利恵は由香里の左手を両手で固く握った。
「・・・・お姉ちゃん、もう寝るわ」
「そう・・・・あたしはもう少ししてから」
「明日も試合あるんでしょ?」
「うん、調べものしてから」
「それじゃ、おやすみ」
「おやすみ」
由香里は二階に上がっていった。
<さてと、今日の三局目の棋譜並べないと>
利恵はバッグから手帳とチェスセットを取り出した。チェスセットは縦横十五センチ位のものだ。
1.d4 f5 2.c4 Nf6 3.Nf3 g6 4.g3 Bg7 5.Bg2 d6 6.0-0 0-0 7.Nc3 c6 8.b3 Ne4
<レニングラード・ダッチ黒7手目C6で受けたけど、白8手目b3には、Na6にしとけば良かったかな?Ne4は、ちょっとはやいわね~>
9.Bb2 a5 10.Rc1 Na6 11.a3 Bd7 12.Qc2 Nc3
<Qc2で、こっちからN交換だからなあ、本当はしたくなかったけど>
13.Bc3 d5 14.Qd2 Nb8 15.cd5 cd5 16.Bb2 Nc6 17.Rc2 Qe8 18.Rd1 h6 19.Ne5 Ne5 20.de5 e6 21.f4 Bc6 22.Rdc1 Qd8 1/2-1/2
<最後の手はQe7ね、やっぱり。それでも、ドローオファー(引き分け提案)承諾してくれたから良かったけど>
利恵がなにげなく左後方を向くと、見慣れたノートがあった。よく見ると美咲の持ってるいるのと同じだ。
<ちゃんと片付けろと言ったのに、もう>
利恵はノートを手にとり、念のため確認してみた。
<やっぱり、美咲のだわ。ああ、たぶんお風呂のとき、着替えを出すのに出してそのままにしたんだわ。まあ、今見つけたから良いけどね、朝になってから大騒ぎするより>
最初のページから中程に、津オープン3Rの記録があった。
1.e4 e5 2.Nf3 Nc6 3.Bb5 f5
<ルイ・ロペス、シュリーマンねえ~。美咲もまた随分と、危なっかしい事してるわね>
興味がわいたので、利恵は再現を始めた。
4.Nc3 fe4 5.Ne4 d5 6.Ne5 de5 7.Nc6 Qg5 8.Qe2 Nf6 9.f4 Qf4 10.Ne5+ c6 11.d4 Qh4+ 12.g3 Qh3 13.Bc4 Be6 14.Bg5 0-0-0 15.Bf6 gf6 16.Nf7 Bf7 17.Bf7 Rd4
<う~ん、ここでセンターポーン取ったのは、大きいかな>
18.c3 Rd7 19.Qc4 f5 20.Be6 Be7 21.Bd7 Kd7 22.Rd1+ Kc7 23.Ke2 Qg2+ 24.Ke3 Qf3+ 0-1
<そうねえ>
利恵はしばらく美咲の局を検討していた。
「津オープン、行きたかったなあ」
谷沢は黒田大樹のアパートで缶チューハイ片手にボヤいていた。黒田は谷沢の自宅近所に住んでいる。
「津オープンてのは、チェスの?」
黒田は、サラミのパックを開けると、二枚、口に入れた。谷沢もつまむ。
「そうです。明日もあるんだけど。ああ、もう十二時まわってるから、今日になるなあ」
「しかし、わざわざ、そんなとこまで行くとはね~。好きだね、君も」
「そろそろ、選手権予選が始まるんです。その調整の意味でも行きたかったんですけど」
「何で、行かなかったの?」
「どうしても、はずせない用事があって。よりによって、こんな時になんですが」
「そうなの」
「さっき、笹川に電話したら、四十人近くいたって、言ってましたからねえ。あ~、行きたかったよ~」
「来年もあるんだろ?」
「そうですけどねえ。第一回の大会だったから、余計いきたかったんですが」
「しかし、あれだねえ。俺には理解できんな。別に金かかってる訳でも無いんだろ?」
「一応、上位にはいくらか、金、返ってきます」
「上位に入れるの?」
「うっ、う」
「まあ、俺相手に苦戦してるようじゃなあ」
「黒田さん、中学の時にやってたんでしょ」
「でも、それ以降ほとんどやってないよ」
「う~ん、まあ私はあまり才能ないしなあ」
「その割には、結構熱心にやってるね」
「そうですね。まあ、変わった奴もいますけど、基本的に良い人多いんですよ、チェスをやってる人」
「ふ~ん、そうなの」
「だって、黒田さん。俺みたいなチンピラに優しくしてくれる人はあまりいないですよ」
「それは君に問題あるからだろ」
「それはそうだけど」
「谷沢くんね。谷沢くんも少しはね、人と話するときはね、相手のことも考えてあげないと」
「まるで考えてないと」
「だから、そこだよ!そういう風に言ってたら、話できなくなるよ」
「う~ん、頭痛いなあ」
「やっぱさあ、あまり人に言いこめられると、この人とは話できないってなるよ」
「それはわかりますが」
「じゃあ」
「でもねえ、黒田さん」
「だから」
「いや、黒田さん聞いて」
「だからさあ、すぐ反論すると」
「いやいや、まあ聞いてよ。黒田さんの話を聞いてると、俺は喋らない方が良いって事なの?」
「そうは言ってない」
「黒田さんの性格はよくわかってるし、言いたい事もわかるの。でも、俺は言うよ。俺がね、発言しない事でだな、うまく物事が片付いたり、円満に進んでたら俺はそうするよ!でもさあ、そうなってないもん!」
「それは何の事で?」
「何でも。全て」
「ちょっと、いったい何の事だよ?」
「まあまあ、とりあえずさあ、これ、読んでみてよ」
谷沢は黒田に“メイトスレッド”創刊号に執筆した提言を手渡した。
「黒田さん、どう思います?」
「どう思いますって、言われてもなあ」
「まあまあ、確かにそういうリアクションが多かったかな、他の人に見せても」
「何か言えといわれても」
「ま、すぐにはねえ」
「それで、他に反応は?」
「反響ですか?無いからわかんない!」
「じゃあ、黙殺ってやつか?」
「さあ?」
「共感するとこあれば、あるだろ!」
「ハッ、ハッ、ハッ!!そりゃ、どうだろ?」
「何だよ。それ?」
「少し話変わりますけど。これと似たこと、某地区のホームページにある掲示板に書いたんです」
「それで?」
「返信は一人だけ。返事をくれた人は以前お会いしたことありますけど」
「何て書いてたの?」
「そうですね、わたしの、HAWKの言いたいこともわかると」
「HAWK?」
「私のハンドルネームです」
「ああ、ネットの」
「まあ、いいや!それは。さてと、黒田さん。申し訳ないけど、これから訊きた